「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48」 DIRECTOR’S STATEMENT

この映画に描かれるのは、アイドルについての予備知識を全く持たない外部の視点から見つめたNMB48の姿である。恥ずかしながらメンバーの名前も顔も知らなかった僕が、虚心坦懐にアイドルの世界の表と裏、光と闇、ハレとケを見つめ、できる限りありのままの世界をスクリーンに載せようと力を尽くした、そんな作品である。
2015年2月末以来、NMB48、AKB48のマネジメントより着替え部屋以外、ほとんど全ての場所へのアクセスを許された僕たち撮影クルーは、メンバー一人一人の素顔を忍耐強く凝視していった。
僕たちは、難波の街の地下にある本拠地・NMB48劇場へ足繁く通った。毎日の公演が彼女達のベースなのだろう、と思ったからだ。そしてそこで繰り広げられている光景は圧巻だった。16名のメンバーがシンクロしてダンスし、大声で歌うエネルギーは見る者をゆうに凌駕するもので、例えば「らしくない」のサビのダンスは何もしらない初見でも鳥肌が立ったのを覚えている。
しかし、真の発見はそれではなかった。
日々の公演の直後、楽屋裏の鏡部屋とよばれるリハーサルルームで、スタッフ、振付師、舞台監督とメンバーで反省会が開かれた。そこでは、容赦ない批判、叱咤があり、メンバーが泣き出してしまうのも目撃した。グループ内での競争も熾烈で、ポジション争いに敗れたものは公演メンバーの16名にも入れず、楽屋裏でダンスの練習を続けなければならなかった。また、公演に出られたとしても、エース集団・シングル選抜に入ることができず、辞めてゆくメンバーも少なくなかった。過酷なアイドルの生存競争がそこにあった。
僕らはその全てを描きたい、とできるだけキャメラを廻した。総フッテージ数は300時間超。さらに、NMB48結成時から撮り貯めた過去素材約1200時間を借り受けた。その膨大な量の素材を見ながら、競争に勝ち上に立つ者、一番下になる者、実力があると評価されていたのに降下してきた者、逆に下からぐいぐいと成長してきた者、辞めるか辞めないかの瀬戸際で迷いに直面している者など、メンバー一人ひとりが異なる状況にあることに気づかされた。NMB48全体を描くには、一人ひとりの個性も大事だが、この背後にある序列のシステム、皆がいつも気にしている人気、ファンとの関係、それを支えるスタッフや家族をも含めてはじめてメンバーが日々何を考え、何を感じ、どんな思いを胸に携えステージに立っているのか、をあぶり出せるのではないか、と考えた。
僕は今まで複数の人間が生きるコミュニティを描いた映像作品を多く作ってきた。ニューヨークに10年間住んでいた折、911後の移民社会を描いたり、帰国後東京谷中の変わりゆく下町共同体を撮影したり、1人、2人の主人公を中心に展開してゆくストーリーというより、複数の人間が生きる世界の網の目を描き出す作品(ドキュメンタリーもフィクションも含む)に興味がある。今作でも、採り上げる人数はどうしても限られてしまうが、その人を見つめてゆけば、NMB48のコミュニティの全体像が見えてくるようなメンバーを取材対象として絞り込んでいった。
女の園である楽屋のコミュニティに入ってゆくと、そこには独特の空気があり、メンバー達が共有しているノリがあった。やはり大阪の女の子だからだろうか、自然な掛け合いがめちゃくちゃおもしろく、キャメラの横で僕が抱腹絶倒していることもあった。Team N, M, BII それぞれのカラーがあり、それぞれにムードメーカーや、一匹狼、おしゃべりもいれば、理知的な子、寡黙な子もいる。それら皆が相まってチームの輪を作っている雰囲気が楽しく刺激的に思え、映画でも見る人がさも楽屋裏にいて、メンバーの日常を目撃しているかのように感じられるよう撮影・編集には気を配った。非公式ユニット(後に公式になったが)<俺ら>を取り上げたのも、山本彩さん、小谷里歩さん、岸野里香さん、山口夕輝さん、小笠原茉由さんら五人の掛け合いが絶妙で、僕が単純に腹を抱えて笑ったからである。アイドルであるまじき、自虐ギャグや互いへの鋭いディスりツッコミに悪のりが相まり、彼女たちの信頼ベースの「笑い」のクリエーションが見事!と思えたのである。
また、ファンとの関係もNMB48を語る上では不可欠のように思えた。月に最低でも2、3回は開かれている握手会・写メ会に訪れてみると、ファンとの密度濃いコミュニケーションの現場が僕を魅了した。現代のアイドルは崇め奉るものでなく、平たく友達感覚で話す、もしくは「俺がついてるから自信もって。大丈夫だから。」「ありがとう。嬉しい。」と語り合い、パーソナルな関係をメンバーと築いているコアファンも多くいた。それはまさしく(疑似)恋愛。熱量がキャメラを廻すこちらにも伝わってきて、なぜこれだけの規模のアイドルグループが成立し継続できているのか、が実感をもって理解できた。
海外、特に西欧・北欧ではAKB48グループに関し、10代の女の子に性の対象としてコスプレをさせ消費している異常な文化だと批判する声がある。しかし、実際、コミュニティの中に入り込み撮影した立場から言えば、そのような断定は当たらないと思う。映画では尺の関係でカットせざるを得なかったが、取材した一人・文教大学の大塚明子准教授は、「日本ほどフィクションと現実がはっきり切り離された文化圏はない。西欧では、ロリコン的十代の性の露出を許せば、大人は見境がつかなくなり性犯罪が増加するという考えがベースにあるが、日本は世界的に見て性犯罪の数は極端に少ない。逆にアイドルというフィクションをファンとメンバーが共有する、巨大なゲーム=リアリティショーがあり、それと現実はまるで違うものと線引きする社会認識がある。アイドルが水着で肌を露出しているからといって、その子が性的に奔放だとは誰も思わない。アイドルという共同幻想をみなで楽しんでいる文化なのです。これは日本に独特なもので、西洋の基準で判断されるべきものではない。」と言った。
実際、僕らが接したファンの人々は、ごく普通の節度を持った社会人が多かった。「おたく」幻想が、アイドルカルチャーへの偏見を助長していると、この撮影を通して思った。だからこそ、メンバーを支える大事な要素として、等身大のファンの姿、そして、彼らがどうしてNMB48に惹かれ、同じCD をいくつも購入するのか、というタブー視されている問題を正面から見つめるべきだと考えた。ファンを類型化することなく、その人の人間味が出るように描ければ、初めてNMB48もしくはアイドルについての映画を見る人でも心に響くのでは、と思った。
ファンやスタッフ、運営部、レコード市場に支えられて成立しているNMB48であるが、そのアイドル達がよく形容される言葉に“きらきらしている”があった。実際に渾身の力を込めステージ上で踊り、歌う彼女達を見ていると確かに“きらきら”輝いているように感じられるが、それは何も彼女達がかわいいからだけでそう見えるのではない。プレッシャーまみれの、真剣勝負の毎日をぎりぎりの緊張感とともに生き抜いているからこそ、そう見えるのだと僕は考える。周知の通り恋愛は禁止され(“男友達と遊ぶ”ようなグレーの行為も含む)、クラブ活動や友達との放課後などごく普通の学生生活を体験できず、時には大学進学を諦める場合もある・・・ 多くを犠牲にして、アイドルとしての仕事に全てを捧げる彼女たちは、10代にして「やらないこと」の選択を迫られる。それがアイドルとして生きることだった。
僕も含め多くの人間は20代になんとなく人生でやりたいこと(職業)を選んでゆき、転職をしつつ30代で自分の道を絞り込み、逆に「やらないこと」を選択する。しかし、多くを削ぎ落とすことで成立するアイドル稼業は、その負の選択を10代で迫られ、売れればまだしも売れずに脱落すれば、学歴はないし、他の仕事のオプションも限られる、厳しい人生が待っている。
ジェンダー平等や女性のエンパワーメントがまだまだ後進国である日本において、女性の社会的地位はまだ男性と同じとは言えない。それはシングルマザーの貧困率が高かったり、女性の再就職が困難であったりする状況だけでなく、女性は年齢が若ければ若いほどよい、「若いわね〜」というのが褒め言葉になるベース文化(欧米では褒め言葉というより、物理的に若いという意味か、もしくは未熟という意味になる)があり、若くフレッシュでなければダメという美的価値観が、「若くてかわいい」アイドル文化を支え、逆に「若くてかわいい」でなくなれば、用無しとなる厳しい業界を生む。NMB48も例外ではなく、だからこそメンバーの親御さん達の心配たるや尋常ではない。親御さん達が、かわいい愛娘をどんな思いで送り出しているのか・・・切り立った崖の上で生きるか死ぬかの真剣勝負を毎日繰り広げ、もし負けて脱落すれば、奈落の谷底がそこにあるからだ。そんなギリギリの状態のところでなんとか踏みとどまり、毎日背後にある奈落を感じつつ180%の力で戦い続ける、まるで死の直前のホタルのように強烈な光を発する、だから彼女達は「きらきら」しているように僕には思える。ふつうの人間の4倍速、5倍速で人生を疾走している、そんな印象である。
アイドルという共同幻想のゲームに乗っかる楽しさと、「やらないこと」を選択し人生を賭けているメンバー達のひりひりした逼迫感、その両方を重ね合わせた宙吊りの中にアイドル達の本当の姿を垣間みる、そんなサスペンスを観客の皆さんには感じていただきたい。不毛の荒野に咲く花の美しさである。
2時間という尺に収めるため(それが配給会社からの要請だった)、数々のシーンを涙を飲んでカットした。薮下柊さん、渋谷凪咲さん、市川美織さんなどはしつこく取材させてもらい、自宅にまでお邪魔したにもかかわらず全カットになってしまった。監督として申し訳ないと思っている。これらは、もしディレクターズカットを制作する機会があれば復活したいと思っている。(渋谷さんの淀川河川敷散歩シーンは、僕の大好きな場面だ!)また、本篇ではカットしたが沖田彩華さんの他にも多くのメンバーが未だシングル選抜に入れず、下積みを続けている。沖田さんをそんなメンバーの代表として見てもらえれば嬉しい。
この映画はNMB48のコミュニティ全体を描こうという野心に貫かれている。採り上げたメンバーは、かわいいからだけではなく、その背後に同じような境遇のメンバーが他にもいる。その子たちの姿へも観客が想像力を羽ばたかせ、六十数名の青春群像を感じて欲しいと思っている。そして、NMB48のことをよぉく知っているファンも、全く知らない初見の方も、アイドル達の世界に没頭し、まるでその日常をともに生き抜き、公演からリハーサル、握手会にレコーディング、総選挙まで体験した時、当初持っていた印象とはまったく違う、バージョンアップされたアイドル像を心に抱いてもらいたい、そう切に願う。
舩橋淳

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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