CINEMASCAPE
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1 【「10+1」(INAX 出版)にて連載・2002年1月】
映画の無国籍性 / 舩橋淳
No-Border-ism of Cinema
私の長編第一作『エコーズ
echoes』は、概ねアメリカ国内より、ヨーロッパの映画祭や東京国際映画祭での反応のほうが好意的であった。それは、映画を製作していた当時は思いもしなかった地域差であったのだが、そんななか、逆にどこに行っても尋ねられた同じ質問がある。それは「貴方の映画は、アメリカで、英語を使い、アメリカ人ばかりの俳優で、しかも主人公が女性である。何故、自分のアイデンティティと相反する環境で映画を撮るのか?」というものだった。
どうやら、自己のアイデンティティと相反する方向で映画を構成するのは、納得できかねる事態らしい。映画とは、作家の自叙伝、もしくは脚本家の体験を反映した物語で構成されるものだという前提である。しかし、生まれ育った文化環境のなかで映画を組織することを拒み、自分のアイデンティティとは無縁な異国の地でキャメラを回す映画作家は、実は驚く程多いのである。
映画史を見れば、偉大な映画作家はむしろ積極的に無国籍であろうとした。W・ヴェンダースは、ドイツ、フランス、アメリカ、日本、キューバなどへキャメラを携えて飛びまわり、オーソン・ウェルズはブラジルへ、ルノワールはアメリカ、インドへと撮影環境を変えている。ロッセリーニ、ジャン・ルーシュそして彼らに多大な影響を受けたフランスのシネマヴェリテ作家群はどうか。遡るとエイゼンシュテインはあの傑作『メキシコ万歳』(一九三一)のためにロシアからメキシコへ渡った。そして今、アッバス・キアロスタミは最新作『ABCアフリカ』の為、デジタルカメラを持ってアフリカに踏み込んだ。自分の生まれ育った文化環境を離れ異国語を話す人々にキャメラを向ける、これらの作家に共通する映画の「無国籍性」なるものは果たして存在するのだろうか?
ロッセリーニのドキュメンタリーの傑作『インディア』(一九五八)を見よう。完全に「他者」としてインドの都市部、山村部に接近していったロッセリーニは、言葉が理解できないまま、出逢った人々へキャメラを向けてゆく。なかでも、象と人間の緊密な関係を描いた象使いのエピソードは素晴らしい。倒木、運搬という重労働を終えた象たちを癒すために、象使いは森の湖畔で彼らの身体を丸ごと洗ってやるのだ。その時の象たちのリラックスぶりは尋常ではない。泥仕事で汚れ切った身体を洗い流すため、必死にごしごしと擦ってやる象使いたちと、完全に心を許しきって象使いの前であられもなくその巨体をごろんとほうり出してしまう象たちの文字どおり「肉体的な」信頼関係が、生々しい現在形で提出されている。
ゴダールはこう褒めちぎる。 『インディア』はすべての通常のフィルムと対極をなす。イメージはそれが想起させる思想を語るためだけに存在する。『インディア』は絶対的にロジカルなフィルム、ソクラテス以上にソクラテス的な映画だ。エイゼンシュテインの『メキシコ万歳』のようにすべてのショットが美しく造形されたから美しいわけではなく、ロッセリーニの場合、真実だから美しいのだ。彼は常に真実から映画を始める★一。
ここでゴダールの言う「真実」とは、如実に顕在化している象=人間の関係ではないか。まったく飾り気なく、肉体と肉体の触れ合いにより見えてくる二つの生命体の緊密な繋がりが全くそのままの形でフィルムに刻まれている。だから「美しい」のだ。そして人間と人間(この場合、象)の関係が密度濃くあらわれた瞬間、その瞬間の生々しさをフィルムに捉えようとするロッセリーニの視線がすばらしい。自分のキャメラアングルに対するゆるぎない自信が『イタリア旅行』(一九五三)の映画作家の最も偉大な資質だろう。
W・ヴェンダースの『東京画』(一九八五)を覚えているだろうか。『東京物語』(一九五三)が制作されてほぼ三〇年後の東京を訪れたドイツ人映画作家は、小津安二郎の映画の記憶を辿りつつ現代都市東京を彷徨する。ある時、彼は地下鉄の駅構内でへそを曲げて座り込んでいる子供とその母親を目にし、懐かしい親近感を覚える。彼は著書でこう記した。
この国を訪れるずっと前から私は東京とそこに住む人々のイメージを強く思い描いていた。それは私にとり地球上のどの外国のイメージよりも強烈なものだった。これらのイメージは小津に源を発するものだ。こんなに親密に感じる都市と人々を世界中で見たことがなかった。私は東京でこの親密さをあらわすイメージを探し求めていた。そして、地下鉄の駅で見かけた子供が、小津の映画に幾度も登場するあの生意気坊主なのだと発見したのだ。というより、そう思えたのである★二。
『東京画』は、映画作家と被写体との距離、親密さそのものを映画の主題として対象化した複雑な構造を持っているのだが、簡略に言えば、このヴェンダースの視線とは、異国の文化、都市、人間を「他者」として見つめる視線というより、文化の差異を超えた普遍性を見つめようとするものと言える。それは、ヴェンダース自身「天使の視線」と形容し、抽象化した視線と同質のものだ。ヴェンダースは、地面に尻をつき母親に引きずられても執拗に駄々をこねる子供に遭遇し、ロッセリーニが象と人間の共生関係に覚えた感動を胸にキャメラを回したように、この子供と母親をフィルムに収めようとしたのではないだろうか。つまり、言語が理解できなくとも、肉体のアクションによって現出した人間の真実を写し取ろうとする視線、それが映画の「無国籍性」を形作っているのだろう。これはあくまで視点の問題、或いはどのような視線を対象に向けるのかという映画作家の主体的選択の問題であって、どんな文化環境で映画を撮影するかという問題ではない。映画の「無国籍性」にとり、外国で映画を撮ることは必須条件ではないのだ。
実際、言葉が省略され肉体のアクション描写のみによって真実が突出する瞬間は、アメリカ人によってアメリカで撮られた純アメリカ映画『こわれゆく女』(J・キャサベテス、一九七四)にも存在する。映画の最後、破綻しかけた夫婦関係が子供たちの熱意によって救われたニック(ピーター・フォーク)は、台所で流血していたメイベル(ジーナ・ローランズ)の手の甲と手首を介抱する。この「バンドエイドのシーン」は、圧倒的だ。台詞は全くない。ただピーターがメイベルの手首を水で流してやり、不器用そうな手つきでバンドエイドをはってやる。それだけだ。しかし、この瞬間交わしたジーナ・ローランズとピーター・フォークの視線には決して忘れることができない強度が漲っている。これはいったい何なのだろうか? 二人の人間の親密度をキャメラで写し取るという不可能が成し遂げられている。自殺を図って手首を包丁で切ったのだから、台所で傷口を洗ってバンドエイドを貼るだけでいいはずがないと、後々になって思うのだが、画面を見つめている時はそんなことが微塵も脳裏を掠めることはない。ピーター・フォークの土木工事で擦り切れたごつごつの手が、蛇口から流れる水に翳されたジーナ・ローランズの美しい手首を愛撫する。そして、二人は見つめ合う。この画面の引力とは、物語への心理的同調からではなく、画面に漲る唯物論的な強度そのものに起因する。
前述のゴダールの言葉を借用すれば、画面が美しく造形されたから美しいのではなく、画面がフィクションを超えた真実を捉えているから美しいのだ。実際、ここではフレーミング、ライティングはどうでもよく、ピーター・フォークとジーナ・ローランズの顔さえ映っていればそれで充分なのだ。撮影現場で最もプライオリティがおかれる技術的要素を無意味と化すこの場面は、映画制作のシステム自体が内包している矛盾を露呈させている。また、このシーンがロサンゼルスの住宅街に設定されなくとも構わないだろう。同じ物語がベルギーの農村であろうと、中国の酒場であろうとどこでもよい。この画面の強度が、そのような物語の背景設定に一切影響を受けないであろうと容易に想像できるからだ。ニックとメイベルの家庭にはまるで宙に浮いてるかのような抽象性があるのだ。映画作家の視線が言語、文化環境に影響を受けない観念的、抽象的なものに向けられていると言えよう。これこそが映画の「無国籍性」ではないか。つまり、「無国籍性」とは物語の文化的背景、時勢から浮遊した状態で映像の生々しさだけを抽出しようとする作家の視点を指すのだ。それは、ロッセリーニの象と人間の共同生活を見つめる眼差しと、ヴェンダースの東京の人々を見つめる眼差し、そしてキャサベテスの俳優の肉体を見つめる眼差しとを等しく結ぶ。
冒頭の質問に対しこのように答えたい。 「自己のアイデンティティとは無縁の環境で、映画の『無国籍性』のみを追求することに意義を見出したから」。
註
★一――Jean-Luc Godard, Godard on Godard, translated & edited by
Tom Milne, New York: Da Capo Press, Inc., 1972. ★二――Wim Wenders,
The Logic of Images: essays and conversations, tranlated by Michael
Hofmann, London: Faber and Faber Limited, 1992. [邦訳=『映像「イメージ」の論理』(三宅晶子+瀬川裕司訳、河出書房新社、一九九二)]。
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