音のクローズアップ
/ 舩橋淳
Close-up of Sound
幾つかのショットを重ねて然るべく物語の空間配置を説明することなく、一ショットで、音声と光への繊細な感性を画面に漲らせ、われわれを無意識にスクリーンへと吸い寄せてしまう映画作家が存在する。例えば、侯孝賢(ホウ・シャオシエン)。彼にかかれば、ロングショットひとつで、われわれを画面に引きつけてしまう。『童年往事』(一九八六)の、家の門前にある大樹のスーパーロングショットや、『恋恋風塵』(一九八七)で李天禄(リー・ティエンルー)老人が飯を食わない孫をたしなめる時、ドア越しでそれを垣間見るロングショットを覚えているだろうか。一ショットも無駄なく、見る者の映画的神経を興奮させる彼の画面こそ、揺るぎない才能の証明である。色彩豊かなブルカを被った女性たちが砂漠を横切る壮大なショットを、したり顔で撮っているモフセン・マフバルバフなんかと比べると、差は明らかであろう。一瞬たりとも無駄にしない台湾人映画作家の画面は、マークを一瞬かわし、ワンタッチでゴールを決めてしまうストライカーのように切れている(さらに言えば、『恋恋風塵』は一五年も前の作品だが、『カンダハール』[二〇〇一]よりもはるかに斬新だ)。
もうひとり、画面の経済性を見事にコントロールする現代の映画作家、マノエル・ド・オリヴェイラ。彼の場合、人物のミディアムショットひとつで、ピンと張った集中力が画面に漲る。最新作『家路』では、台詞をとちり続ける老俳優(役のミシェル・ピコリ)を無言で見つめる監督(役)、ジョン・マルコヴィッチを捉えたミディアムショットが感動的であった。彼がキャメラを廻せば、移動する自動車から外景を捉えたショットですら刺激的である(『世界の始まりへの旅』、一九九七)。
このように、われわれを一ショットでその映画的空間に引きずり込んでしまう映画は、例外なく豊穣な音声トラックに支えられている。豊穣な音声トラックとは、オフスクリーンの音の豊かさにほかならない。同時録音による音域の広さと音質の深みが、光のそれと同様の、またはそれ以上の豊かな表情で見る者に語りかける、現代映画はそのような贅沢を創り出すことが可能な環境にある。
機材を抱えて現場に行く。とりあえず三脚の上にキャメラを載せ、マイクをセットアップし、俳優たちのリハーサルを行なってみる。脚本に書いてある段取り通りにことが運ぶことはほとんどない。毎度、現場の諸条件に合わせて俳優の立ち位置を変えたり、台詞を言う順序を変えたりする。音声についても、マイクが俳優の立ち位置に届かないとすれば、あとで台詞を再録音するか、それとも、テイクの音声を尊重したいのなら、俳優にワイヤレスマイクをつけるか、さらにガンマイクの音感を優先したいのなら、俳優がマイクが届く位置まできてから台詞を言わせるなど、技術的な制限とクリエイティヴな選択を両方加味した判断を、次から次へと下してゆく。セット撮影ではなく、ロケーションを行なうとき、映画作家に求められるこの思考の柔軟性は、別に珍しいことではない。ロッセリーニ以降、スタジオの外で映画が撮られるようになって以来、映画作家が常に対峙しなければならない現実である。
ホウ・シャオシエン、ロメール、ストローブ=ユイレは、「音のロケハン」をするそうだ。ロケーションに足を運び、キャメラ位置や時間により移り変わる光の具合を確かめるのと同時に、どのような音が聞こえてくるのか、感覚を尖らせるのだ。
――どの音を拾うかという問題
優れた録音技師なら、ドアの開閉音ひとつも素晴らしくシャープに録る。俳優の発声だけに注意が集中しがちな現場で、木々がざわめく音や、布と布が擦れ合う音にも細心の注意を払う。そのような録音技師の仕事を拝聴するのは、フィルムのラッシュを見るのと同様に、興奮を禁じえない体験である。ホウ・シャオシエンは、『悲情城市』(一九八九)以降、同じ録音技師(杜篤之[ドゥ・ドゥジ])と共に仕事をしているが、画面上で何を見せ、何を見せないかということにクリティカルな彼は、聞かせる音と聞かせない音に対しても同様の感性を発揮している。『戯夢人生』(一九九三)で美しい夕闇に沈む山々と共に聞こえた虫の音を覚えているだろうか。『好男好女』(一九九五)で、服務隊の隊員たちが畦道を歩きながら口ずさむ唄も記憶に鮮やかだ。『恋恋風塵』の、油入りスープをかけたご飯はうまいから食べなさい、と孫をたしなめる李天禄の声を忘れる人などこの世にはいまい。複雑極まりない現場で、あるひとつの音声を取り上げ(必ずしも人の発声音ではない)、その囁きを洩らさず汲み取ろうとする。ホウ・シャオシエンと杜篤之の共同作業とは、そのような音の視点=聴取点を絞り込むプロセスではないだろうか。
「その場限りの光」を撮し取ろうとするのが映画であるならば、「その場限りの音」を洩らさず記録しようとする身振りも、映画であることを忘れてはなるまい。プロの音声技術者がよく用いるサウンド・エフェクト・ライブラリーにはけっして再現できない「その場限りの音」を拾い上げる杜篤之は、優れた撮影監督と同様に、その技術とセンスを評価されねばならない。自ら録音技師をやりながら、三〇本以上の映画を撮り続けているフレデリック・ワイズマンは、そのことを最も理解しているシネアストだと言えよう。また、W・ヴェンダースは小津についてのドキュメンタリー『東京画』(一九八五)で、自らマイクとレコーダーを手にしていたそうだ。
――どの音を聞かせるかという問題
アクタン・アブディカリコフ監督の新作『The Chimp』(邦題=『旅立ちの汽笛』)を、昨年の東京国際映画祭で見る機会を得た。疑う余地のない傑作である。前作『あの子と自転車に乗って』(一九九八)と同じ少年(監督の実子、ミルラン・アブディカリコフ)が一七歳に成長し、主人公を演じる、作家の自叙伝的物語である。虫や大樹などの自然と人間の生を映像的に併置し、観念の世界で通底させるアブディカリコフの手腕もさることながら、映画の音声空間の豊かさもこのうえない。
アルコール中毒の父親が酔うといつも置き去りにしてくるオートバイを、夜中に探しに行くシーンがある。夜道に打ち捨てられた車体をやっとのことで発見しても、ポンコツのエンジンはろくにかかりもしない。寡黙な少年は文句ひとつ言わず、何度もキックペダルを踏む。ドドッ…ドド・ドドッ…と弱々しい機械音と共に、漸くエンジンが動き出す。この単車のエンジン音を忘れた人は映画を見たとは言えないだろう。なぜなら、その時スクリーン上に突出していたものは、少年の演技でも、闇の中のオートバイの映像でもなく、そのポンコツのエンジン音だったからである。不安げにオートバイに跨る少年と共に、われわれは画面に響くエンジンの振動を記憶したのである。それは、音のクローズアップとも言うべき、音声が映像以上に際立つ瞬間であった。
八〇年代以降のゴダールにおける、映像と拮抗するように鳴り響く音楽やノイズを、ソン・イマージュ、音声と映像のモンタージュと形容することは容易である。しかし、ゴダールが考え抜き、選び抜いた音声に対する彼の感性について、その豊穣さに匹敵しうる言葉を連ねることは簡単ではない。『ゴダールの探偵』(一九八五)でジュリー・デルピーが吹いていたクラリネットの音、もしくは、『ゴダールの訣別』(一九九三)において戸外で響きわたった稲妻の音。それは、音それ自体、表象すべき意味が無効の領域で、ただ空気振動の強度のみが響きわたる、ショックのような過剰さであった。このゴダールの音声と、『恋恋風塵』の李天禄の声や『The
Chimp』の単車のエンジン音は、同じ映画的感性から組織された「音」と解釈できはしまいか? その感性とは、現場の音声を取捨選択し、ある過剰さへとクローズアップする聴覚である。
――映画の音とは、聞こえるものではなく、聞かせるもの
マルチトラックのドルビーサウンドが主流の現代ハリウッド映画は、画面内の音は忠実にしかもすばらしくヴィヴィッドな再現性を見せるが、逆に、どの音を聞かせないかという取捨選択のパースペクティヴは欠落している。映像において、何を見せて、何を見せぬかという感性が欠落しがちであるのと同じように。オリヴェイラの新作『家路』に未だ配給が付かないという信じがたい映画環境のアメリカ。デジタル・ドルビーサラウンドを生み出した映画音声の先進国では、音が痩せ細ってしまっている。