CINEMASCAPE
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cinemascape
4【「10+1」(INAX 出版)にて連載・2002年9月】
他人の悲劇にキャメラを向けること / 舩橋淳
Exploitation of Images
私はいま某テレビ局のドキュメンタリー番組のため、同時多発テロ事件についての特別番組を制作している。その取材・撮影を通し、ドキュメンタリー制作のある倫理的な問題に突き当たった。
九・一一の被害者を撮影するとき、彼らの悲劇を番組(つまり、資本主義社会で、利潤を上げる企業の活動)のための「食い物」にしているのではないか?という疑問である。他人の惨劇にキャメラごと突っ込んで、プライヴェートな感情を根こそぎ搾取し、番組を盛り上げようとすることに問題意識を持った。テレビ・ドキュメンタリーやジャーナリズムは、建前として「見過ごされるかも知れぬ人々の悲劇をひとりでも多くの人に知らしめることが使命」と唱えるが、実際、制作される作品は陳腐な感傷主義に塗りたくられた作品であったりすることが多い。
毎日、被害者の遺族と話し撮影しているなかで、映像制作者として彼らに接するうえでの基本的な姿勢について考えさせられた。他人の悲劇にキャメラを向けるわれわれの「責任」とは何なのか?
キャメラを被写体への暴力装置と考えるドキュメンタリー作家佐藤真は言う。
「対象への責任」を負う覚悟がなければ、暴力装置としてのキャメラを他人様(ひとさま)に決してむけてはいけないと、私は考える。職業俳優と違って、ドキュメンタリーの被写体は、キャメラの暴力に初な素人である。撮影現場では、本人も了解していたつもりでも、スクリーンに大写しにされると、思わぬ反響が本人を窮地に陥れることもある★一。
佐藤真が言うのは、つまり、「対象が解釈されるであろうイメージ」に対する責任がわれわれにあるということなのだ。誤解・偏見を招くような映像表現はけっして許されない。となると、安易な感傷主義は断じて避けなければならない。それは現実を捨象してある側面だけを強調する拡大解釈を招くからである。これは、倫理の問題だ。セルジュ・ダネーがトラヴェリングは道徳的な事柄だ、と唱えたのと同じレヴェルで。撮影者の無意識=被写体に対するリスペクトの有無が、恐ろしいほど如実に映像に出てしまうのだ。言葉遣いで、差別意識、偏見が露呈してしまうように。
先日、『War Photographer』という戦争写真家についてのドキュメンタリーがニューヨークで公開された。コソボ紛争、パレスチナ紛争など二〇年以上にわたり世界中の戦線を渡り歩いてきた、写真家ジェームズ・ナットウェイの半生を描く映画である。催涙ガスが立ちこめるウエスト・バンクで、イスラエル軍に向かって投石するパレスチナ人グループを撮影したり、コソボで無残に遺棄された死体の山の前で泣き崩れる遺族に至近距離でキャメラを向けたり、できる限り「現場」に接近しようとする彼のスタイルは強烈ではある。彼は、映画の冒頭で引用されたロバート・キャパの言葉「If
your pictures arenユt good enough, youユre not close enough.(もし写真が良くないのであれば、それは君が十分近づいていないからだ)」の体現者として描かれている。
この写真家ジェームズ・ナットウェイは「戦争の悲劇」を、わが名を馳せるための「食い物」にしているのではないか?という疑問を抱いた。本人自身もこの問題について真剣に考え抜いており、以下のように映画中でコメントしている。
私は被写体に対しすべての責任を負おうと努力している。外部の人間がキャメラを向けることは、人間性の侵害である。私が自身を正当化できる唯一の方法は、彼らの陥っている苦境に対し敬意を払うことだ。深く敬意を払えば、彼らは自分を受け入れてくれる。その時はじめて、私は自分自身を受け入れることができるのだ★二。
ところが、彼の発言と行動は矛盾を見せることになる。映画中、ニューヨークの国際写真センター(International
Center of Photography)でのソロ写真展のオープニングで、彼の「輝かしい」功績が華やかに表彰され、どれだけ写真に感動したかを彼に伝えるべく、われもわれもと押し寄せるオバサンに彼が取り囲まれる場面があった。オバサンたちは、本当に同情しているのだと思うし、写真家自身も戦線では誠実に人々と接してきたのかもしれない。しかしその後の、展覧会などの活動で、自分が所謂セレブリティとして扱われてしまう文脈を受け入れてしまった時、彼は結果的に「他人の悲劇」を利用したことになるのだ。
被写体に対して誠実であろうとする「意志」と、彼らの悲劇を「食い物」にしてしまうことは紙一重であり、その差異は収奪したイメージをどのように利用するかによって決定されるのだ、と私は考える。いかに現場で被写体の人間に受け入れてもらったからといって、それを己の売名行為に使っているのであれば、現場での誠実さは、単なる言い訳と堕す。ジャーナリストとして、またはドキュメンタリストとしての首尾一貫性が、問われるのである。
例えば、コソボの惨状をより多くの人に知ってもらうため、全米各地で展覧会を開き、国際的な支援を要求するキャンペーン、草の根運動に結び付けること。そのような社会変革の引き金にまでならなければ、ジェームズ・ナットウェイの二〇年のキャリアは生ぬるい。彼の言うとおり、もし本当に、社会に対し何かしら憤りを感じるのであれば、『TIME』誌などで写真を見せるだけでは物足りないのだ(私の調べた限り、彼は自分の写真を雑誌、展覧会で発表する以外の活動はしていない)。
さらにドキュメンタリーの作り手、クリスチャン・フレイにも問題がある。ジェームズ・ナットウェイの「責任を取ろうと努力している」という言葉が、いかに深い意味を持っているのか、彼はわかっていたのだろうか。写真家がどのようにしてその「責任」を取ってきたのか、それを示すことなく国際写真センターで、派手に表彰される彼を示すのみであるこの映画は、(作り手の意図がどうであるかに拘わらず)写真家の活動を偽善として揶揄していることになる。監督クリスチャン・フレイは写真家の存在価値の根源となる点、結局、彼の二〇年間かけて撮って来た写真は、何かの役に立っているのか?について煙に巻いてしまうという、不誠実なまとめ方をしていると言わねばならない。彼は、ドキュメンタリストとして批判精神を欠いている。
確かに「責任を取る」と言っても、写真、もしくはドキュメンタリーが社会変革の起爆剤になりえることは現実には少なく、撮影者はただただ彼らを長期にわたって撮り続けることでしか、責任を取る「意志」を示すことができないかもしれない。しかし、最低限、われわれが断固自戒しなければならないのは、陽の当たらない世界の悲劇に注意を向けるという文脈から逸脱して、それによって自身にスポットライトが当たってしまうことである。あくまで滅私の姿勢を貫かなければならない。でなければ、誠実な意志も建前と化してしまう。アッバス・キアロスタミが二〇〇一年のカンヌ映画祭で、ドキュメンタリー『ABCアフリカ』が、コンペティションに組み込まれるのを拒否したのは、彼なりの自戒であったと思う。
他人の悲劇にキャメラを向ける場合の「対象への責任」とは、 1.撮影に応じてくれた被写体が、解釈されるであろうイメージに対する責任
2.彼らを「食い物」にしないため、首尾一貫した滅私の姿勢 の両方が求められる。
これは倫理の問題だ。
註
★一――佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平――世界を批判的に受けとめるために』下巻(凱風社、二〇〇一)一七一頁。
★二――映画『War Photographer』より。URL=http://www.war-photographer.com
を参照。
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