CINEMASCAPE
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Cinemascape
5 【「10+1」(INAX 出版)にて連載・2003年1月】
憶えてしまう映像・ドゥルーズの「任意の空間」について
Unforgettable Images: Deleuse's "Any-Space-Whatever"
/ 舩橋淳
映画を見るとき、ストーリーを順に追っていたはずなのに、ふと気づけば、そのことを完全に忘れ、美しい映像に身を委ねてしまうことがある。映画館を出ていま見た映画のことを振り返ると、そんな映像のほうが、物語よりも印象深く憶えている。ある人物の顔が忘れられなかったり、ひとつの風景が脳裏にこびりついて離れなかったり、人間の脳へと映像が染込んで行くこの数奇な現象は、映画の本質を指し示しているのかもしれない。
例えば、ヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』。ただ単に、レモンに似た柑橘類の果物を延々と捉えつづけるこの映画は、見る人によると非常に退屈なものかもしれない。しかし、「ただ毎日、庭のマルメロの樹をスケッチする老画家の日常」という変化のない物語とは異なる次元へ、映画が展開していることに気づかぬ者はいないだろう。マルメロの果実が、ゆっくりと成長しそして朽ちてゆく時間が、映画自体の持続とシンクロしてくるとき、画面に少しずつ満ちてくる全存在的な充実感がある。取るに足らないこと(=マルメロの成長記録)にもかかわらず、美しい映像の連鎖により、それがとてつもなく魅惑的な体験に変化してしまう、感性の拡大作用とでもいおうか。
もしくは、ヴェンダースの『さすらい』、『都会のアリス』、『パリ、テキサス』に登場する車窓の風景。ヴェンダース自身「やさしさを込めた視線」という、車窓から見える風景の連鎖は、映画的持続のなかで何よりも突出している。
ソクーロフの傑作『日陽はしずかに発酵し…』もそうだ。映画が完全に説話空間から離れ、映像そのものの即物的な力で瞳を凌駕する瞬間。美しい青年医師の部屋でたなびくカーテン。そこに毎日たむろする少年、それにゼリーに包まれた伊勢海老。細部が脳裏にこびりつき、記憶から離れぬイメージ群……。
映画が物語的地平から浮遊し映像の抽象性へと飛び立つこのような時間を、ドゥルーズは叙情的抽象と呼び、それは「任意の空間」から生起するとした。「任意の空間」とは、空間的位置関係が失われたショット(群)であり、たとえばスタンバーグの映画でのディートリヒのクローズアップのように、背景を真っ白にして無機化し、女優の顔のみが画面から突出しているかのような印象を与える画面をさす。「任意の空間」とは直訳すれば、どこであろうと、いつであろうと構わない空間ということである。場所、時代、時間が設定されているはずの物語のなかで突如、ひとつのショットがその説話空間からはみ出して普遍的な強度を湛えてしまうこと。それは顔のクローズアップのみでなく、体の細部や物体のクローズアップ(ブレッソン)、または突如として現われる漠とした空虚な画面(アントニオーニ)によっても引き起こされる★一。
この「任意の空間」は、実験映画も含め、映画がその始源よりもつ叙情的抽象だとするドゥルーズは、大著『Cinema』1、2で何度となくこの概念を援用している。
「任意の空間」とは、全くいつでも、どこでもよいという普遍的抽象性ではない。それは、ひとつの空間[訳者註:例えばレストランの一シーン]で内部の均質性(部分間の距離、位置関係)が失われてしまうことを指し、そこでは無限数のリンクが可能となる。この空間は、可能性の純粋な軌跡として捉えられたヴァーチュアルな接合体なのだ。(…中略…)クローズアップ、ミディアムショット、ロングショットという単純な構成システムを映画が超越したとき、われわれは「感情のシステム」へと移行する。それは、[訳者註:クレシチョフ効果に比べ]より繊細で、判別しにくい、人間的な感情を超えた欲動を生起させる★二。
ドゥルーズによると、「任意の空間」は「分断された空間」と「空虚な空間」に分類される。その違いは前者が場面の位置関係がはじめは観客に提示されているのに対し、後者ははじめから不明であるという点である。この「任意の空間」の両極を横断した数少ない作家として、J・キャサヴェテスがいる。『フェイシズ』や『アメリカの影』で突如として挿入される顔のクローズアップは「分断された空間」であり、『グロリア』や『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』では、時間が省略され人物が突然その場にいたりする「空虚な空間」が画面を満たしている★三。実際、キャサヴェテス作品を特徴づける、フレームの不均衡による不安と幻惑は、空間内の距離感を無効にするばかりか、時間を引き延ばし、収縮し、見る者を宙吊りにする。
この宙吊りこそ「任意の空間」にほかならず、それはフィクションに限らず、ドキュメンタリーにおいても出現する。フレデリック・ワイズマンを見よ。数ある彼のドキュメンタリー傑作群に登場する人物のクローズアップは、撮られたばかりのラッシュ・フィルムを見るかのような現在性をもつ。
彼の作品は「任意の空間」で溢れている。例えばニューヨークの福祉センターを描いた『福祉(Welfare)』(一九七五)。この映画は全編、福祉センターで生活補助金を巡って、市民とソーシャルワーカーの間で繰り広げられる押し問答を描いているのだが、場面一つひとつに登場する人物が強烈な存在感を放っている。インディアンであることを愚痴る男、父親が入院しており福祉の支給を受けられず困っている母親を助けるため、すごい剣幕で抗議するアフリカン=アメリカンの女、自分の夫がどこにいるかわからない女と自分が結婚しているかどうかもわからない男の不倫カップル、自分の住所が間違って登録されたばかりに役所をたらい回しにされ、未だに支給を受けられずにいる女など。さらに、ソーシャルワーカーに楯つくまでたどりついた人間はいいほうで、役所が閉まる午後五時でも待合室は人で溢れかえっている。途方に暮れたような、それを通り越してただ脱力感のみを浮かべた人々の表情のクローズアップをモンタージュし、映画は幕を閉じる。ナレーションによる説明や時間軸に沿った説話の展開は一切なく、ただただ現在形の福祉センターの時間とそのシステムの矛盾がそのまま(すなわち、最も強烈な形で)われわれ観客に突きつけられる。
ここでは、とにかく人間の顔が忘れられないのだ。人のもっとも苦渋に満ちた密度濃い時間を突きつけられることで、われわれはものの五分間であろうともその記憶を消し去ることはできないのだ。ナレーションがなく、固有名も一切明かされぬ眼前の出来事を解読しつつ、過酷な時間に耐える人物の横顔をひたすら凝視し続けること――ワイズマンを見るということはそのような体験である。
顔を憶えてしまうこと。その記憶の印象だけで突き進む点において、ワイズマンとキャサヴェテスは通底している。換言すれば、映画全編に渡り、「任意の空間」を行き渡らせているのである。この突出した顔の登場、印象主義的な編集により、時間と空間の感覚を撹乱してしまうこと=叙情的抽象による画面の突出が、キャサヴェテスであり、ワイズマンなのだ。ドゥルーズの分類に従えば、キャサヴェテスの前期とワイズマンは「分断された空間」で、キャサヴェテスの後期は「空虚な空間」といえる。
つまり、憶えてしまう映像とは、「任意の空間」にほかならない。キャサヴェテス、ワイズマンの顔、マルメロの果実、ヴェンダースの車窓、ソクーロフの室内空間……。
拙作『echoes エコーズ』でも、そのような瞬間を待ち望みながらキャメラを廻した。映画の導入部のたばこの煙、パオロ・パグリアコーロが眠りに落ちてしまう田舎の沿道、車がトンネルの中を抜けて高架橋へとディゾルブするショット、バージニアの農場の牛等々。これらは、単なる心象風景というよりも、物語的な文脈から飛翔し、脱却する「任意の空間」を見つめる視線だった。私には、何もない空間に何かが見えるかもしれぬと思えたのだ。それは、亡霊かもしれない。ヴィクトル・エリセが、果実の全て落ちてしまったマルメロの樹がぽつねんと立つ裏庭に何かを見たように。
現代の作家はこの「任意の空間」をいかにフィルム上に現出させるか、ということを懸けてキャメラを廻す。その最たる人ゴダールは、画面と音が切断された「任意の空間」だけの映画を作り続けている。
註
★一――Gilles Deleuze, Hugh Tomlinson & Barbara Habber jam trans.,
CINEMA 1: The Movement-Image, The Athlone Press, London, 1986. ブレッソンの『スリ』におけるクローズアップによるスリのアクションの断片化を、ドゥルーズは「触覚的な空間」と形容している(一〇九頁)。また、アントニオーニについては、P・ボニゼールの論文を引用しながら、「色彩によって空虚な空間を作り上げた」と述べている(一一九頁)。
★二――Ibid, p.109-110. ★三――Ibid, p.121.
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