EUREKA
AVDHIKARIKOV
【ユリイカ(青土社) 2002年9月号】
自然との調和の中で撮影するのが、私の方法です。
アクタン・アブディカリコフ監督「旅立ちの汽笛」をめぐって
聞き手=舩橋淳
舩橋 今度公開されるアブディガリコフ監督の少年期三部作の第三作『旅立ちの汽笛』は去年の東京国際映画祭に出品されました折に拝見いたしました。その映画祭には僕も『エコーズ』(9月中旬渋谷ユーロスペースにて公開予定)という作品を出品しており、何より監督の前作『あの娘と自転車に乗って』に大変感動していたものですから、その監督の新作ならと喜び勇んで会場に駆けつけました。やはり期待以上に素晴らしく感動いたしました。そして今回自分の作品の公開が決まり帰国しましたところ、アブディガリコフ監督の作品の公開と偶然にも時期が重なりました。昨年の映画祭以来、監督の映画は凄いと方々で触れ回っていましたし、また上映時期の幸運な巡り合わせにも恵まれましたので、今回こうして一緒にお話をさせていただくご縁に巡り会うことができたのだと思います。
さて、僕がアブディガリコフさんの作品で最も感銘を受けるのは画面の細部への感性なんです。三部作の第一作『ブランコ』でケンカしている子供が持っていたハムスターを落とすところで思わずはっとしてしまったり、第二作『あの娘と自転車に乗って』でもおばあさんが牛の糞を練って壁に張りつけているシーンがありました。映画のいたるところで、小さな小さな細部における感性が突出していて、それをカメラがちゃんと捉えている。カメラが寄るというよりはその雰囲気を丸ごとおばあさんと一緒に撮っているように思えました。
アブディガリコフ そうですね。細部はもちろん重要ですが、しかしそれはむしろ主人公[監督の少年期を自伝的に描いた三部作ではすべて実の息子ミルランが主人公を演じている]の世界を描く一つの手段に過ぎないわけです。
舩橋 例えば布団や絨毯の選び方とか、『あの娘と自転車に乗って』の最初のシーンで登場するおばさん達の衣裳もそうですし、また特に第二作までに多く見受けられた民族の儀式、例えば第二作の養子を授かるシーンなど、細部への配慮に対する感性が素晴らしいと思います。ところが今度の『旅立ちの汽笛』では映像のディテールの方向性が少し変わってきたのかなという印象を受けました。というのも、キルギスの民族的特長を描写・紹介するような細部というより、キャメラが村を包み込む自然、例えばアヒルやカエル、コオロギ、そして夜に佇む柳の木などがインサートされたりしている。それが同時に主人公の心象風景として機能していたかのような印象を受けました。
アブディガリコフ 私にとって一番大事なのは主人公の感情です。例えば主人公の女性に対する気持ちであり、そしてその女性と出会って主人公がどのような感情を抱いて、どのように成長していくのかを描きたいと思っていました。細かいディテールはそうした登場人物の感情の世界の表すためにあります。私の場合、映画のストーリーよりは、主人公がどういう人間であるか、どういう状況の中で生きているのかということが重要です。だから私の映画はいわゆる劇映画というより心理的な映画と言ってもいいのかもしれません。
舩橋 もう一つ感銘を受けたのは、少年たちの顔です。三部作すべてに少年たちが外で遊んでいるシーンがあるんですが、そこでの少年たちの活き活きとした表情が素晴らしい。こういったシーンでの演出ではどのような工夫をなされたのでしょうか。
アブディガリコフ 子供も含めて私の映画に出ている人たちはみんな素人です。プロの役者は使いません。素人の人や子供を使う時には撮影現場の雰囲気づくりが大変重要になってきます。私が怒鳴ったりすると子供達のデリケートな気持ちが簡単に壊れてしまう。いかに調和的な雰囲気の中で仕事をすることができるかが大切で、そのためにスタッフをはじめ映画に参加している誰もが出演者や子供達のことをいかに大切に思っているかをわからせることが重要になってきます。ひいてはその映画が成功するかどうかにもかかってくることです。自然との調和の中で撮影するのが、私の方法です。我々があまりにも静かに、こっそりと撮影しているので、傍目から見たらいつキャメラが回っていなかったのか、わからないと思いますよ。
私は、常日頃から周りの小さなことを観察しています。都会で住んでいる人は、目的を決めて、それに向かい全速力で走るという生活をしていますが、私はもっとゆっくりと、自分を取り囲む環境を観察しながらじっくり生きているのです。
舩橋 撮影現場の雰囲気ということに関連してですが、僕はニューヨークで現地のクルーとともに映画を作っています。インディペンデント映画を、僕も含めて出身も民族も多彩なメンバーで撮っています。そこではやはり現場の雰囲気というのは重要になってきますね。インディペンデントということもあって決まった枠に囚われることなく、例えば現場で面白いことがあればそれを自由に即興的に映画に取り込んでいくことも多いです。アブディガリコフ監督はそうした即興的な演出ということはなされるのでしょうか。
アブディガリコフ もちろん即興もありますし、撮影をしながら決めていくこともあります。ただ私が思うに、演出プランを最初から練るのか、あるいは即興的に撮るのかということで厳密に区分をつける必要はないと思います。映画表現において最初から何かを分けて考えるというのは正解ではない。その場にある美しいものを直接撮っていくということには違いがないと思いますし、結果として私の場合は大体自分の思うように撮ることができていると思います。
舩橋 映像とともに監督の映画で僕が大変気に入っているのは音です。例えば『旅立ちの汽笛』の中で夜中にふと聞こえてくる虫の音ですとか、主人公が酔っぱらったお父さんのバイクを取りに行くシーン。ここではなかなかエンジンがかからないんですね。何度も何度もエンジンがかけるのですが、やっとのことでかかったエンジンの音が何とも素晴らしい。そのシーンでは他の音を全く聞かせないようにして、エンジンの音だけに集中させるような演出をしているように思えました。
アブディガリコフ 実は私は音痴なので(笑)、音楽はわからないのであんまり使わないようにしています。音楽よりもむしろ音=効果音を使います。一作目と二作目ではほとんど音楽は流れていません。ただ『旅立ちの汽笛』では結構歌や音楽が出てきます。やっぱり少年時代には音楽が非常に大切なもので、主人公の性格とか人生の一部になりうるものですね。だから先ほど申しましたように主人公の心理的な世界を描くために、音楽を響かせているのです。
舩橋 それでは三部作の色について伺いたいと思います。第一作『ブランコ』はモノクロで、第二作『あの娘と自転車に乗って』ではパートカラー、そして第三作『旅立ちの汽笛』にして完全にカラーになりました。この色彩の変遷は主人公が成長する過程と何らかのかたちでシンクロしているのでしょうか。
アブディガリコフ 私は元々画家志望でした。ですので色はとても大切ですし、重要な要素です。
人は遠い昔のことや自分の幼い頃を思い出してみようとすると、完璧に覚えているわけではなく、おぼろげにしか覚えていないものですよね。最初の『ブランコ』がモノクロだったのはそのためです。次の作品で色が付いたのは、主人公の感情的記憶を表すためです。つまり彼が劇的に覚えてしまったこと、彼にとって大事なことをカラーで表しました。最後の作品は主人公が成長してからの話です。最初の『ブランコ』では彼もまだ幼いですからその世界も非常に限られていて、自分が演じているのかどうかさえも意識されていないかもしれません。『あの娘と自転車に乗って』の時は多少とも彼なりの世界も作られていましたし、『旅立ちの汽笛』の時にはもう一八歳になっていますから、彼も周りの世界を意識して演じることもできたわけです。
少年時代というのは誰にとっても一番楽しい時ですが、多少とも大人になった主人公は自分の家族だけでなく、むしろ社会に目覚めます。そのために登場する人物にもそれぞれの色をつけて表現しなければならないと思ったのです。
舩橋 それは先ほど監督が御自身の映画では主人公の感情と環境が最も重要だと仰ったことにつながりますね。
アブディガリコフ そうです。『ブランコ』の時はまだ私も映画監督としては主人公と同じくらい幼かったわけです。その後の作品で主人公とともに成長してきたと言えると思います。
舩橋 僕が映画を作っているニューヨークは「人種の坩堝」と言われ、多様な文化圏から来た、いろいろ違う言語を話す人々が混在しています。そのため、ニューヨークでしか見られないユニークな文化現象が見られます。例えば、パレスチナ人とユダヤ人が仲良く暮らしているブルックリンのコミュニティなどがそうです。アブディガリコフ監督の映画を拝見していると、キルギスでは東欧的な顔立ちの女の人たちやアジア的な子供たちなどが一緒に集まっているようです。このように多彩な文化が入り交じることで何かユニークな現象が見られますか。
アブディガリコフ ソビエト時代から共和国の間は自由に移動することができましたから、どの共和国でも多民族になっていると思います。そのことはソビエトが崩壊したからといって変わることはありません。もちろんそのことで問題が全く存在していなかったとは言えません。それは人種差別というよりは日常的な文化差別とでもいうようなものです。各共和国にそれぞれ文化があるわけですが、ソビエト時代には所謂ソビエト文化がやっぱり圧倒的だったわけです。やはり独立してからキルギス独自の文化というのが強く出てきたと思います。ですので最初に舩橋監督が指摘されたように、私の映画でもキルギスが独立して間もない頃に作った最初の作品の方が、後の作品よりも民族的な特徴といったものが反映されているのかもしれません。
三部作はいずれも私の自伝的な要素が強いものですが、その中で最も私の実像に近いものはおそらく最後の『旅立ちの汽笛』です。キルギスタンが独立してから時間がたち、実際の現実の世界に近い世界を描くことができたのだと思います。私の映画ではあんまり激しい動きや行動というものは出てきません。われわれ人間というのは環境の一部に過ぎないわけです。私が映画の中でそうした枠を超えて何かを教えようとしたり、あるいは押し付けようとすることはできません。
舩橋 今後あの主人公はどのように成長していくのでしょうか。
アブディガリコフ 自伝的なことはもうこの三部作で言い尽くしてしまったように思います。これ以上自分のことばかり扱うのもどうかと思いますし(笑)。とりあえずこの作品で終わりにして、次の作品では自分とは全く関係のない題材を使って映画を作りたいと思います。一つのアイデアとしてはこの主人公、すなわち息子が今の自分と同じ歳になった時に彼に監督の役をやってもらいたいと思います。つまり映画中映画で監督役の息子が『ブランコ』のような映画を撮っているというものです。幸い彼の成長は私の映画作品となって残っていますから、それも素材に使いたいですね。
*この対話は両監督が自作の公開にあわせて来日した際に行われた。七月一三日に東京・日仏学院においてアブディガリコフ監督作品の特集上映と公開討議が行われ、対話者を舩橋淳監督が務めた。ここに再録したものは公開討議とその前後に行われた対話から構成したものである。
*アクタン・アブディガリコフ監督の『旅立ちの汽笛』は九月七日より渋谷・シアター・イメージフォーラムにて公開予定。また舩橋淳監督の『エコーズ』は渋谷・ユーロスペースにて九月下旬よりレイトショー公開予定。
(Aktan Abdykalykov・映画監督)
(ふなはし あつし・映画監督)
(通訳=中川エレーナ)
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