キャットスキン Cat Skin 1960
Joakim Pedro de Andrade
タンバリンの皮革のために猫の皮を時には使うという導入説明からコンベンショナルなドキュメンタリーかと思えば、捕獲を企む男や少年から猫が脱走した瞬間、町中で同時多発的に猫が暴走を始める。ダム決壊のようなダイナミクスは、丁寧な状況描写に安住していた我々の感性を一挙に刺激し、興奮させる。
「夫婦間闘争」 Conjugal Warfare 1975
1975/88分
監督: ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ
解説: ブラジル南部クリチバを舞台に3通りの男女関係を並行して描く。艶笑喜劇のスタイルで鋭く社会を批評した長編第4作。(Filmex ウェブサイトより)
脂が額に光る絶倫弁護士と、お互い早く死ねばいいのにと思っている老夫婦、盲目の老婆の側で少女とセックスをする男と、まあわかりやすく社会層が分配された群像劇なのだが、アルモドバルのラテン直情的な欲望描写を、アルモドバルであれば通俗的になってしまうところを無難に抑制をきかせて、戯画化しているところに、作家の手腕と確固たる視座を見る。特に、伴侶の老人に追い詰められ憎しみのあまり、老婆がショットガンをぶっ放すシーンは、戯画を乗り越え、ペキンパーの泥臭いリアリズムだった。好みの作家ではないが、こんな確かな手腕の作家をいったいどこから、どうやって探してきたのか、その経緯に興味がわく。
河の上の愛情 Cry Me a River Jia Zhangke
2008/19分
監督: ジャ・ジャンクー(JIA Zhang-ke)
解説: 旧友の男女4人が蘇州で再会する。『プラットホーム』のチャオ・タオとワン・ホンウェイ、『天安門、恋人たち』のハオ・レイとグオ・シャオドンが共演。
白と漆喰と黒の瓦屋根の歴史建造物が両岸をぴしりと埋め尽くす緑の河。そのゆっくりとした流れに乗り小舟が下ってゆく姿は確かに美しい。2組の男女が久方ぶりに再会し、異なる人生の可能性について思いを馳せるという主題は、長編にしても驚かないほど深淵であるが、それを短編19分という尺で体験させてくれるという意味では、短編らしからぬ広がりを持った作品ということが出来るかもしれない。しかし、どこかこの船が下るショットのオリエンタルな美しさに寄りかかっているだけの印象がある。主題を掘り下げると言うよりも、イメージありきの作品に思えてしまうのが残念なところ。
可視から不可視へ Visible, Invisible Ermanno de Oliveira
2008/7分
監督: マノエル・デ・オリヴェイラ(Manoel de OLIVEIRA)
解説: 携帯電話を題材として、現代社会を鋭くコミカルに風刺する短編。サンパウロ映画祭によって製作され、サンパウロ中心部パウリスタ通りで撮影が行なわれた。
サンパウロの繁華街で男同士が会話する中、携帯電話が頻繁にかかってきて、二人とも話が出来ないという状況を通し、現代社会のコミュニケートのあり方を風刺する。しかし、言ってしまえば単なるミニコントにすぎず、キング・オリヴェイラもやっつけ仕事をやるんですな、と。
Welcome To Sao Paolo
Tsai Ming Ryang, Kiju Yoshida, Amos Gitai, Mika Kaurismaki
ブラジル/2007/97分
監督: アモス・ギタイ、ツァイ・ミンリャン、ミカ・カウリスマキ、吉田喜重、レオン・カーコフ
解説: サンパウロ映画祭の呼びかけにより、世界の18人の映画作家たちが巨大都市サンパウロをそれぞれの視点からとらえた17話のオムニバス・ドキュメンタリー。ブラジルを代表する歌手カエターノ・ヴェローゾの語りが全体をナビゲートする。
監督たちは一応名前を連ねているものの、クレジットでは”viewed by Amos Gitai”となっており、果たしてどこまで制作・監督をやったのかは疑問。というのは、明らかに素人の手による撮影、ショットの選択、編集が随所に見られたからだ。しかし、ブラジル人女性ディレクター(名前が出てこない、失礼!)”Odyssey” という短編は、一つの継続するイメージーー進行するハイウェイの前方車窓と、変化する時間、光、人々との対比をモンタージュしてゆくというまさしくフラクタル性の映画。変化しないスタイルと変化し続ける被写体の織りなす持続は美しい。
「黄瓜」Cucumber 中国 2008
中国/2008/100分
監督: チョウ・ヤオウー(周耀武 ZHOU Yao-wu)
解説: 北京に暮らす3組(工場を解雇された中年男・映画監督志望の青年・屋台で野菜を売る一家)の日常を並行して描く。現代中国での夢や欲望のあり方や家族の変貌を繊細なタッチで捉えた監督第1作。
北京の首都高速の分岐点に立つ男の後ろ姿。彼はゆっくりと視線を横方向に移動させ、ハイウェイの高架下の茂みの奥に現れる赤い日傘を捉える。白いシャツの男が現れ、日傘の女とダンスを始める。その白シャツの男はハイウェイの上から降りてきたのだろうか、と思った瞬間、キャメラは再び、上へとパンし、高架上で下を見下ろし続けている冒頭の男を捉える。そこに女性がフレームインし、二人が明らかに恋人同士であるかのような対話が示される。あの高架下で見えたダンスシーンは、二人の異世界での姿だろうか。傑出したファーストショットだった。
「そしていつか分かるだろう」
アモス・ギタイ
フランス/2008/89分
監督: アモス・ギタイ(Amos GITAI)
解説: ジャンヌ・モローを主演に、家族の隠された過去をめぐる母と息子の葛藤を描く。現在のフランスを主な舞台として、ホロコーストの傷跡を物語った巨匠ギタイの最新作。ベルリン映画祭で特別上映。撮影はカロリーヌ・シャンプティエ。
1987年ヴィシー対独政権下に実はドイツへユダヤ人を引き渡した協力者がいたことが公になったモーリス・パポン裁判が進行する中、現代のパリで、今までロシア系ユダヤ人であることをひた隠しにしていた老いた女性(ジャンヌ・モロー)が、死ぬ間際に孫2人のその秘密を明かし、シナゴーグへと連れて行くという物語。弁護士らしきその女性の息子は、ユダヤ教の暦が印刷された手帳など持ち物から母親がユダヤ人であったのではないか、と疑いを持ち始めるが、悠然と構える母親に正面切ってその質問を口にすることは出来ない。
3つの部屋を横移動で往復や、ラスト暗い回廊から資料室へ入り、賠償金申請のプロセスの説明と質問を受ける主人公ヴィクトル(女性の孫)を捉え、持ち物を悉く記録したリストを手に、再び廊下を茫然自失の様でさまよい、外のエッフェル塔へと誘うショット(その後、キャメラは再びくらい廊下へ後退し、クレジットが流れる)など、シャンプティエのキャメラは秀逸。歴史の沈黙、残滓の重みがずしりとのしかかってくるような骨太な作品を見たのは久しぶりであるが、アンゲロプロスほどまで突出しているわけでもなく、フラッシュバックなど凡庸な手法も使いつつ、なんとか作り上げてしまうあたりがギタイを一流の作家とするのからは遠ざけているような気がする。確かに最後の賠償金請求の細かなプロセスを体験したり、女性の死後の葬式が現代パリで行われるときの人々の困惑を細かに描いたりすることは「意義深い」だろうが、それとおもしろいかどうかは別問題である。HHHならもっとすばらしく、かつおもろく撮ったにちがいない。
それにしても、Q&Aの真っ最中にアモス・ギタイから電話が入ってきたのには笑いました。
完美人生 Perfect Life
香港、中国/2008/97分
監督: エミリー・タン(唐暁白 Emily TANG)
解説: 中国東北部からへ向かうリーのドラマと、香港で離婚して中国へ戻ろうとするジェニーのドキュメンタリーを交え、2人の女性を通じて中国の今に迫る。香港に移住した中国女性監督の第2作で、ヴェネチア映画祭にて上映。ジャ・ジャンクーが製作に参加。
Jia Zhangke のProducer Chow Keung がプロデュース・編集(撮影も少し)、その妻Emily Tang が監督した作品。中国の地方都市を転々としながら仕事、恋人を替えてゆく女性を追ってゆく、中国版「西鶴一代女」と思いきや、フィクションだけでは物足りないと感じ(監督談)、その女性より10歳ほど年上の実在の女性のドキュメンタリー・・・子供を地方に残し、香港そして深圳へと出稼ぎに移り住んでゆく姿を活写する・・をミックスして、二つの世代の女性の生き方から「現代中国の女性像」を浮かび上がらせようとした試み、と取り敢えずは言える。化粧が肌に乗らないにも拘わらず、薄い眉毛の線を引いている30代後半の女性が、「昔は何も考えずに、楽しめた時があった」と写真を見返しているシーンは、ぐっと涙を堪えたし、フィクションパートで、若い女優と彼女が恋する義足の絵描き男(ジャ・ジャンクーの「世界」の警官役だとか)との出会い・展開は悪くない。しかし、監督がQ&Aで言っていたように「年上の女性キャラが、若い女性キャラの未来の姿である」という解釈が、どこまで映画として機能しているかは疑問。改めて二つのストーリーの並列化による構造的意義を映画の主題へ昇華させることの難しさを知る。だって、正直なところ、全く関わりのない二人の女性の並行物語をみるよりも、「西鶴一代女」を見る方がおもしろい!そこなんだよ。