「抱擁」 1953年 87分
監督: マキノ雅弘
製作: 東宝 製作: 田中友幸 脚本: 西亀元貞, 梅田晴夫 原案: 八住利雄 撮影: 飯村正 音楽: 芥川也寸志 助監督: 岡本喜八
出演: 山口淑子, 三船敏郎, 志村喬, 小泉博, 平田昭彦, 堺左千夫, 山本廉, 宮口精二, 汐見洋
一時期イサム・ノグチの妻でもあった山口淑子(李香蘭、シャーリー山口)と三船敏郎のメロドラマ。マキノはこんなのも作っていたのかと唖然。1953年といえば次郎長三国志シリーズ連作の真っ最中。どう間違ってノワール的メロドラマが作れてしまうのかと目を疑うが、山口淑子はちゃんと歌いまくり、無難に見せ場を作っていた。
雪崩に遭い死んだ恋人のことを思いながら、「山小屋」という場末のバーで働くホステス山口淑子は、クリスマスの雑踏の中でその恋人そっくりのギャング・三船敏郎と出会い、取り憑かれたようにこの危険な男に魅かれてゆく、というありがちな設定を戦後の東京と冬のアルプスで作りだしてみると、意外や意外、全く無国籍な映画に化けてしまう。詩人、画家、作家が集うバー「山小屋」はどこかモンパルナス=ボヘミアン的な雰囲気を漂わせ(志村喬のぞんざいな扱われ方には笑うしかない)、そうかと思えば三船敏郎と出会う雑踏の演出はSiodmakあたりが40年代後半に作っていてもおかしくない、B級ノワールのような刺激的な緊張感と不安が漲っていた。Wylerであれば単調で冗長になってしまう群衆の処理を、マキノはうまくやってしまう。画面に大勢の人物を詰め込んだときの演出は、MGMと東宝京都のスタジオシステムの助監督の技量の違いと言うよりも、間違いなく監督個人の力量だろう。というのは、Wylerの群衆はいつもありきたりで、マキノは常に刺激的だからである。
ラスト、雪山でスキーでのチェイスシーン。松明とサーチライトの火だけが見える闇を、恋に落ちた三船と山口がスキーで強行突破する運動感はすばらしいが、しかし、突如三船が甘い言葉を囁き出したり、雪崩で死んだ恋人の忘れ形見である黒百合を取ってくると言い出したりと、場当たり的な脚本の展開が目立ち、そんな欠点は取り敢えず目をつむり撮り上げてしまうマキノの好い加減さも随所に見られた。それが時に「阿波の踊子」のように狂喜の大団円を生み出すこともあれば、今作のように粗が目立ちすぎる結果となる場合もある。
「日本俠客伝 血斗神田祭り」
1966(東映京都)シネスコ、95分 (脚)笠原和夫(撮)わし尾元也(美)川島泰三(音)斉藤一郎
(出)髙倉健、鶴田浩二、藤純子、藤山寛美、河津清三郎、大木実、里見浩太郎、長門裕之、野際陽子、中原早苗、天津敏
高倉健、鶴田浩二、藤純子の東映三大スターそろい踏み企画の同時代の期待度の高さが、画面の随所に見受けられる。
美術、衣装、照明というバックグランドを請け負う職人たちの労働が、感涙ものの完成度で組織されており、嫉妬した。あの時代にスタジオで映画を作るのは、本当に楽しかったんだろうな、と。66年といえば、関東では大映、松竹などスタジオが斜陽の一途をたどっていた時代。吉田喜重、大島渚など聡明な作家たちはインディペンデント作家として独立を図ろうとしていた。しかし、京都ではまだ強固なセット撮影の組織を中心としたスタジオの理想郷が機能していたということか。
大木実、河津清三郎、天津敏、中原早苗など脇役がいい。特に悪役大貫一家の総統を演じた天津敏と、脂ぎった丸い顔が画面からはみ出しそうな金貸しの汐見(遠藤辰雄)。鶴田浩二、高倉健、藤純子、藤山寛美、里見浩太朗、野際陽子、長門裕之、それぞれがバッティングすることなしに見せ場に次ぐ見せ場が登場するのは奇跡というしかなく、一人の主人公(=健さん)に集約されることない役者たちの同時共存が、画面に名状しがたい緊張感を導入している。シネスコのフレームの中、夜道を歩いてきた高倉健が、女郎宿から出てきた芸者・藤純子を発見する時がすごい。夜闇の黒に藤純子の薄い水色の着物がスッと浮き上がり、そこに身の置き場に困りながらも袢纏姿の高倉健がぐっと堪えて立ち尽くす、という構図には息を呑んだ。上映後、妻と飯を食いながら、高倉健の代わりに現代の日本人男優を立たせて、藤純子を受け止めきれる器量の男がいるか、という話題で盛り上がるが、残念ながら誰もいないんじゃないかと沈黙。
「次郎長三国志」はプロットの詳細を記憶できず、どれも同じに思えてしまうのが厄介なのだが、「日本俠客伝」「昭和残俠伝」シリーズ、「俠客列伝」など東映3大スターそろい踏みの作品も、どの作品で鶴田浩二がのっぴきならない理由で悪者一味の助太刀をし、どの作品で正義者集団に仁義を通し共闘するのか、記憶が錯乱してしまう。それでも病に伏せた妻を助けてくれた江戸鳶の頭に礼をするため、鶴田が独りで殴り込みを仕掛けるのだな、とヤクザものは「仁義」によって中心人物たちが動いてゆくという不文律が一貫しているため見るものは安心してスクリーンに身をゆだねることが出来るという点で、「次郎長~」の支離滅裂な散文調とはちょっと違う。
おきまりの殴り込みが終結し、仁義を通した鶴田は慚死。高倉は相手方の親分を殺した容疑で警察に引き渡されるが、その瞬間、藤純子がささささささっと進み出て、ドスの柄に凝固した高倉の血染めの拳を、白い両手で解いてやる。そのとき高倉は握り拳を藤に預けたまま2歩ほど進みでて藤の後ろへ、つまり出口へと向かうのだが、そこでのカット割りとアクションの連携が絶品である。もう一度確認したいところだが、握り拳を解く藤の横にあったキャメラが、高倉が歩を進め、藤に背を見せる瞬間に、高倉の方に切り返し、まるで空間全体が回転したかのような高揚感を生み出した。鈴木一誌氏が京都映画祭公式カタログで「次郎長~」シリーズに見られる「回転」を指摘していたが、この作品のクライマックスにもマキノ的な<回転>演出が炸裂しており、男が警察に引き渡されようとしている土壇場で、全く場違いで必然性も何もないように思える「血染めの拳を解く」アクションが、この<回転>によって高倉と藤の接近と別離をセンチメンタルに映像化し、正当化してしまう。これぞマキノマジック!