「五香宮の猫」 想田和弘監督

試写で拝見。

岡山の小さな港町・牛窓コミュニティの人々、猫、魚、じいちゃん、ばあちゃん、子ども、坊さんなどなど、生きとし生けるものの生態系、有機的に繋がった世界の豊かさに魅せられた。

年金生活者の高齢者がほとんどの釣り人コミュニティ、なぜ狭苦しい防波堤で釣りをしているか、というと、車を駐車したその場で釣り糸を垂らせるから「歩かなくて済む」とか。観察者・想田監督の出会いや発見を緩やかに繋いでゆくと、その地域に根ざす人の網の目、経済の網の目、猫たちの網の目、利害の対立、信条の対立、外部の世界との関係などが浮上してくる。

それがとても自然に繋がれており、芋づる式に世界が広がってゆく感覚を楽しみつつ、美しい、または笑えるビジュアルとともに鑑賞できるよう、その編集の手つきは、経験を重ねた深みを感じる。

フレデリック・ワイズマンの観察とは異なる、参与観察に完全に振り切ったとように思えた。
一歩引いて観察して、撮ってゆくというよりも、世界と関わる中で見えてくるもの、こちらが話しかけ、向こうからも話しかけてくる(小学生にインタビューされるシーンが出色)ように、キャメラの中の世界とキャメラの背後の世界を平たく繋げてしまうことが、この世界の魅力をもっとも余すことなく映像と音声でさしだす術である、と悟ったかのように・・・。

何か「コンセプト」や「意味」が生まれる前の、世界のありのままの姿を差し出すことが、これ以上ない豊かな芸術表現たりうるということを示している。人々の対立構図や、常識の違い、世代間の格差、倫理の対立、変容してゆく地域社会などが描かれている、としたり顔で分析することは可能だが、それでこの映画を捉えたことにはならないだろう。

そのようなコンセプトや意味が生まれる以前の世界を差し出しているのだから。

むしろ、そこからこぼれ落ちてくるもの、言葉と言葉の間をすり抜けてゆく映像の豊穣さにこそ感性を働かせてみたいと思える。

社会問題など大きなコンセプトを「描いてやろう」と息巻いて、カメラで狩猟するように撮ってゆくドキュメンタリーがある一方で、この意味が生まれる以前の世界の姿を、そのまま受け止める映画の豊かさもある。そこにある小宇宙の全体感から、人生観、コミュニティ観、死生観、ペット観など、さまざま感じるのは見る者の自由として余白が残されている。


その意味で、ワイズマンの「メイン州ベルファスト」「アスペン」「インディアナ州モンロヴィア」のような、スモールタウン、コミュニティものの全体感を想起させる、懐の深い作品だ。

最後に、一番好きだったネコはこちら(笑  
(人気投票したら面白いだろう^^)

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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