主体性を失った無意識に向けて

震災後の日本で何が描かれていないのか?
それをずっと考えている。
いろいろな課題・・・まだまだ見えていない現実に想像力を巡らせてみる。
原発労働者の現実・・・どんな人たちがあそこで働いているのだろう。
日本の原子力政策が、どのような犠牲の下に成立してきたのか。
50年代〜60年代に自民党と正力が、いかにマスをコントロールし、「クリーンエネルギー」と謳う原子力導入にたどり着いたのか。
 
これらは報道の記事やニュースを見れば、事実としては把握できる。
しかし、その実感が限りなく薄い。
この薄さが問題なのではないか、とこの頃思うようになった。
原発のある町・福島県双葉郡双葉町。
箱物の体育館や図書館が交付金により建てられ、仕事を与えられ、しかし40年後には町そのものがなくなってしまうような、そんな原子力発電所を持つことがはたして「恩恵」だったのか。
全てを失ってみて、漸くわかった。
そう、双葉町の町長は僕に語った。
双葉町から奪い去られたもの。
それはおそらく、自分で判断し、築き上げてゆく共同体としての価値ではないか。
自分たちが、生きてゆく環境を、雇用・保険・福祉を自分たちで生み出し、少し時がたったら本心が変わってしまう権力の言うなりには決してならないこと。そうした、精神的なインディペンデンスと二本の足できっちりと立って歩むことが出来る共同体の生きる力(それは明治中期までは確実に存在していた!)が、原発の立地地域から、長い時間をかけ、少しずつ、しかし、着実に根こそぎ奪い去られていったのだ。
僕たちが都会で贅沢な消費をむさぼっているときに、一方、地方ではどんな犠牲が強いられいたのか。
日々の責任をまったく意識していなかった僕たちの怠惰な精神、主体性を喪失した無意識がそこにある。
ここにあるのは、中央の繁栄と地方の過疎という根源的問題。
僕の感じる実感の薄さとは、中央と地方の物理的な距離によってうやむやに消失しているこの大きな、大きな問題から来ているのではないか。
なにごとも中央の価値が、下々までコントロールを及ぼすとき、人の欲望は周辺から中央へと向かうだけの一方向的世界となる。もっと複数のリゾームが同時共存する合衆国に、日本の意識構造を変えてゆくべきではないだろうか。単数性ではなく、多様性を是とする社会として。
全員が意見を同じにしなくて良いのだ。
それぞれの共同体でそれぞれの価値を生み出し、互いにリスペクトしてゆく、そんな価値観の多様性を許容する社会にシフトすればいい。
がんばろうニッポンの裏側を見つめると、日本の一義的精神構造の問題が浮上してくる。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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