”In Another Country” Hong Sang Soo (釜山国際映画祭にて)
いつものホンサンス映画と同様に、今回も女とやりたい男ばかりが跋扈し、焼酎を飲み明かすという話。さらに、今まで何度も見られたように複数のショートストーリーを重ねて、その相対的な差異からテーマや人間存在が浮かび上がるという、内的相互照射型の映画。
それでもイザベル・ユペールが出てくると、画面は一気に華やぐ。韓国男子の取り乱しぶりは笑ってしまうが、それは取りも直さず作家の文化観察的な視点であり、面白い。このユーモラスな視点は毎度のことだが、笑ってしまう。もちろん、sexist であり、女性蔑視的であるという批判は真っ当だが、これが現実ではないか、といわれると、はい、そうですね、と頷いてしまうリアリティと奥行きを兼ね備えている。
一つのエピソードで、階段の横に立て掛けた傘を、別のストーリーで同じアンが拾ったり、とエピソード間がメビウスの輪のごとく相互連関していたりする遊びも、年々堂に入ってきており、ただ楽しい、というしかない。
ロメールのように原理主義的にストレートに撮っていないため、現実の延長としての世界観、光の粒子間はなくなり、どちらかというと、ホンサンスによる「神の視点」が強調され、映画より作家が偉いのだ、というスタンスに結果としてなる。その分、やはりロメールの方が偉大だったとは思う。しかし、今のところ・・・という留保をつけておく。この韓国人作家がロメールの年齢になるまであと30年ほど撮り続けたら、ものすごい代物を撮り上げるだけの素地があるかもしれないからだ。
本作のように、物語の構造を意識させることは、諸刃の剣である。相互照射的刺激が映画に装填される点では面白いが、作家の「神の視点」をみるものに再度意識させてしまうという点では、マイナスであるし、しらけさせてしまう。フィクションとは上手いこと、観客を騙すかどうかに懸かっているからである。その点、今世界でもっとも上手い「騙し屋」といえば、あのイランの巨匠がぱっと浮かんでくるが、彼は決して自分の視点を悟らせまいと、虚構の中に様々な「現実」がたまたま紛れ込んでしまった!という偶然性を仕立てあげる達人である。
現実に向けてキャメラを向けるとき、虚構という家の柱や壁が見えてしまうと、その中に住もうとする我々は冷めてしまう。それが全面ガラス戸であり、さも屋外(=虚構の外の、我々が住む本当の現実世界)と風通しよく通じあっているように見えるとき、初めて我々は心を許し、ダマされた気になるのだ。
ロメールの映画でたびたび出てくる僥倖の瞬間(「アストレとセラドンの恋」や「春物語」、「緑の光線」を思い出せば十分だろう)も、魅力的な現実世界を見事に構築して、テーマも掘り下げ、我々をたっぷりと魅了した最後に、あの衝撃を喰らわすのだから、やはりキアロスタミと並んで、このフランス人作家も騙し打ちの名手と言わねばならないだろう。
以上の理由で、ホンサンスは、本当の意味で、映画なのかどうか、まだ僕には評価できない。
しかし、どんなにネタがかぶろうとも、男女の組んずほぐれつと焼き肉と焼酎の繰り返しであろうが、画面の奥行きも、世界の広がりも、ギャグセンスも一級品だし、面白い。
そして、現実に向けてキャメラを限りなく開いているがゆえに、ロメールの境地、いやその向こうに辿り着くかもしれない。だから、僕はホンサンスを見続けたい、と思う。