ロメールのイタダキだとか、ホンサンスーの二番煎じだとかいう批判は、「ほとりの朔子」について何も語ったことにならない。
この作品が感動的なのは、完璧な画面でなくとも映画は映画になるという深田晃司の強靭な意思であり、それが地方の周縁都市で「緑の光線」的なバカンスの時空間を支える環境哲学となっている点にある。
映画作家は、美しくかつ的確なショットを磨き上げることに懸命になるものだ。
しかし、深田晃司はそんなことはとるに足らないと呟く。
フレームの人工的な境界線などに意味はなく、偶然に満ちた世界の素顔に向けてレンズを開いてゆけば、そこに映画の未来はあると踏んでいるのだ。
この無防備なレンズが、あの二階堂ふみの横顔を捉えたとき、映画は前代未聞の身震いを体験する。
長くはない人生体験からは理解できない大人達の荒唐無稽と、悪意を持たないことが悪そのものとなってしまう悲劇を沈黙のうちに受け止める彼女の横顔。
そんな僥倖の瞬間を撮ってしまった深田晃司を祝福したい。
舩橋淳