「黒ずんだ手でできること」 舩橋淳 2016/3/11

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この国において、今日この日になると思い出さない人間は殆どいないのではないのか、と思われる5年前の災禍。
メディアでは、記憶が薄れてゆくこと、様々な問題が風化してゆくことを取り上げ、311を忘れてはならない、原発事故はまだ終わっていない、という論調が支配的になるだろう。
それは確かに間違ってはいない。
あの日、津波や原発事故の映像を目撃し、心震わせ涙したことを僕らはきっと忘れないだろう。自分に起きた最も人間的で感情的な反応を、日々の淡々とした日常に埋没することなく、しっかりと胸に刻み付け、そこから学んだことを活かそうとする意思は大切だからだ。
しかし、それだけでは足りないのではないだろうか。
「今もなお」、福島第一原発からは放射能が漏れ続けており、特に海洋への汚染水の流出は未知数である。それを防ぐはずの遮水壁も全くうまく行っていない。
線量が高い帰還困難区域は「今もなお」存在し、福島県からは10万人以上が自宅を追われ、避難生活を「今もなお」続けている。
さらに国際基準よりも20倍も高い被ばく許容量を国が設定したことにより、避難対象にならず被ばくを強いられている人々と、それは受け入れられないとして自主避難した人々の数はさらに多い。
年月を経て、問題はより複雑になった。
福島の被ばくを指摘し、改善を望むことが、逆に復興の妨げになるから「もう騒ぎ立てないでくれ」とする福島県内の空気。それが、復興という名の抑圧を生んでいる。
それは、社会構造的な暴力であり、虐待といえる。
臭いものにはフタをして見ないことにし、それよりもまずは復興を、気持ちの上で寄り添うことが大事、と「見ないこと」に加担するのは、この構造的な虐待に手を貸すことになる。
大切なのは、遠く離れたところから「福島を救え!」と叫ぶことでも、被ばくの事実を取り上げ、「政府がなんとかしろ!」と政権を糾弾することでもない。ベクトルの方向に注意したい。あるべき姿は、各々異なる被災者のジレンマをまず受け止め、そこから自分にできることを考えてゆく姿勢だと思う。
この5年間、周辺を旋回するばかりで本質をついていない「空騒ぎ」が多かった。例えば、「美味しんぼ」の鼻血問題。いま聞くと、とたんに問題が極小化したように感じられないだろうか・・・当時はものすごい騒動だったのに。
僕たちが無視すべきでない本質とは、矮小化されている被ばくの問題である。
福島では、166人が(疑いも含め)小児甲状腺がんと診断された。
通常の250倍以上の発生率。しかもがん患者の子供たちの分布は、線量マップと一致している。なのに、政府は被ばくとがんに影響は認められない、と否定する。
このままいけば、「原発事故が起きても健康被害は起きない」という既成事実が作られてしまう。恐ろしい事態が進行しているのだ。
しかも、それが僕たち、関東圏の人間が使ってきた電気のせいで。
(いろんな場所で繰り返しているが)僕たちは原子力発電を支え、原発事故に加担してしまった当事者である。何も関係ない部外者ではなく、僕たちの手は、黒ずんでいるのだ。その事実を忘れてはいけない。
遠く離れた地方の人々に、知らず知らずのうちに犠牲を強いる原発という構造的な暴力装置にこれ以上、加担しないこと。無意識のうちに一部の人に犠牲を押し付けないよう、「意識力」を高めること。
僕らはもっともっと注意深くありたい。
自分の使う電気、ガス、水、エネルギー、資源がどこから来ているのか?いつでも知っていたい。自分が何を消費しているのか。それは社会構造的に「消費させられている」のかもしれない、と疑う注意深さ。
メディアリテラシーが必要だ。
311以後、権力への監査・チェックを行う新聞社・TV制作者も少なからず存在するが、もう一方で政権や企業の発表をそのまま垂れ流す喧伝装置になっているメディアも多い。
ノーム・チョムスキーが言っていた
「知性とは、疑いのないところに欠けている何か」だと。
僕たちは権力の使う言葉には、いつも疑い深くありたい。
先日の、福島の農業従事者と環境省の代表会議で何度も叫ばれたとおり、「風評被害とは、根も葉もない噂のこと。」しかし、今の福島で起きている放射能汚染と、それによる買い控えは、「根も葉もある実害である。」
だから、「風評被害」という言葉を使うこと自体が、政府の福島抑圧作戦に加担することになるのだ。この言葉は使うべきではない。
柄谷行人がかつて指摘したように、日本政府は、原発推進のためのキャッチフレーズを歴史上4度、変更した。
①「原子力の平和利用(1950~60年代アメリカから導入時期)」
②「資源の乏しい国のための未来のエネルギー(1970年代オイルショック期)」
③「CO2を排出しないクリーンエネルギー(80年代後半〜地球温暖化期)」
④「電気が足りない(311以降〜現在)」
そして、今僕たちはこれらがすべてウソだったことを思い知った。
とくに導入期の「明るい未来のエネルギー」は、原発立地市町村だけでなく、高度経済成長期の日本人がみな乗っかったレトリックだった。(そう、鉄腕アトムを見てほしい)
ときの権力が用いるレトリックを鵜呑みにする文化から、
それに疑いの眼差しを向け、自分たちの言葉で考える文化へ僕らの主体が変わらないと本質的な変革にはならないだろう。
そうやって、自分の言葉で社会のあり方を語る環境を、子供たちから醸成してゆくべきではないか。
「どうやって生きるべきか」を語ることが、「政治的な話だからイヤ」のようなネガティブな空気に絡めとられるのではなく、「当然そうでしょ!Cool!」と受け止めてもらえる環境づくり、みんなの雰囲気づくりに寄与したい。
どうやったらハッピーでかっこいい人生を送ることができるのかが、この「意識力」の高さにつながるようなダイアローグを生んでゆきたい。それってクリエイティブな作業だと思う。
やっぱりイソップ童話「北風と太陽」のように、人間は「〜であるべきだ!〜しろ!」と命令されるより、こっちの方がおもしろいよ、わくわくするよ、といわれる方を好むもの。
「我々は不正義を強いられている!断固反対!」と怒る被害者意識は、限界がある。
エネルギーも、資源も、社会インフラも「消費させられている」という被害者意識は、いつまでも受け身であり、だからその場しのぎの「文句言い」になる。
僕は、この被害者意識こそ逆転すべきだと思う。
どんな資源とエネルギーを使って、どんな生き方をしたいのか?
そこから、どんな社会のあり方、どんな政治の方向性であってほしいのかが見えてくる。子供たちの教育も、高齢者への福祉も、農業への助成も、移民への政策も、自分たちの生き方がどうしたいかの延長として自分たちの社会を空想するところから発想されるべきと思う。
そんなポジティブなダイアローグを生み出してゆきたい。
よく脱原発社会のためには、安い自然エネルギーを整備すればいい。そうすれば市場原理で、消費者は自然エネルギーを選ぶから問題ない、という議論を聞く。しかし、それだけで満足すべきではない。そこに思想がないからだ。
エネルギーを何の考えもなく受け身で消費し続けること自体がおかしい、と311で僕らは身に沁みるほど学んだからだ。
自分が何を消費するのか、という自分主体の「意識力」を持つべきであり、それがなければ、また「文句言い」の被害者意識に堕ちてしまう。
被害者意識を転換し、自分の言葉で、自分の生き方と政治を語る人々の輪を広げてゆければ、と思う。
そんな思いで、6年目の東北に向け黙祷を捧げたい。
舩橋淳

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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