国連によるジェンダー平等ランキングで日本は世界120位(※)と、先進国の中でも最下位に低迷している。そして、国連の女性差別撤廃委員会はセクハラの禁止規定を持たない日本に対し長い間勧告を続けている。
この世界で酷評される日本の男女格差とセクハラ、さらにそこから奥に透けて見える社会の諸問題について、全てを映画で描くことはなかなか難しい。そこで僕はここで整理してみたいと思う。男性である僕自身の無意識のバイアスを質しつつ客観描写に努めたいと考えるが、無論まだなお「甘い!」箇所もあるかもしれない。ご批判はぜひお聞かせ願いたい。
【現状把握】
厚生労働省の調べによれば、日本におけるハラスメント件数は年間82797件。
民事上の個別労働紛争で最も多い問題であり、過去12年間毎年増え続けている。
パワハラやセクハラに加え、ネットでの誹謗中傷など多重被害のケースも増えており
、働く成人男女の約4人に1人がなんらかのハラスメント被害を受けている計算だ。
そして、その45%は被害後、特に何もせずやり過ごしたという。無論、これは氷山の一角であり、労働局に訴え出ることのできなかった人々が山ほどいることは容易に想像がつく。
そして、半数近い45%が事件後なにもしなかった(できなかった)というのは、問題解決の方法が限られたまま放置されていることを示唆している。深刻な事態といえるだろう。なぜなのだろう?
日本国憲法第14条「法の下の平等」、第24条「個人の尊厳、両性の平等」などに基づく男女雇用機会均等法がこれまで幾度も改正され、その度にハラスメントに関する規定も強化されてきた。同法における「職場におけるセクシャル・ハラスメント」とは、
①職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ、それを拒否したことで解雇、降格、減給などの不利益を受けること
②職場の環境が不快なものとなったため、労働者が就業する上で見過ごすことができない程度の支障が生じること (厚生労働省HP、男女雇用機会均等法第 11 条より)
そして、各企業・事業主にこの「防止措置を講じることを義務付け」ているそうだ。
わかるようでよくわからない規定である。ここに書かれていることは、要するに「各会社がセクシャル・ハラスメントの対策をやりなさい。義務です。」ということで、「国はやらない」ということである。
これこそが日本のセクハラ対策がまだまだ未熟で、国際的にも批判を浴びている点である。
国がやらないということは、どういうことか。
セクハラが「違法」だという定義づけ、禁止規定はないということであり、
それは裁判で争えないということである。(2022年現在)
セクハラを受けたら、即「違法」となり司法救済が受けられるわけではなく、裁判をしても民法の不法行為という一般的な規定を使って争うしかない。
これは、被害者が声をあげにくい大きな要因の一つである。
はっきり「セクハラは違法だ」と国の法律が禁止していないのが、多くの曖昧さを生んでいるのだ。
【差別意識の希薄な社会】
しかし、法律が諸悪の根源であるか、と言われればそうではない。
その背景により根深い問題がある。それは、日本社会に深くはびこる女性差別であり、その差別に対し人々が感受性が低いこと、無関心であることである。
アメリカのハラスメント研究の第一人者・キャサリン・マッキノンは、セクハラを個別事件として民法による不法行為で定めることを全否定した。セクハラを、個別の言動の違法性を問う事件として扱うのは、セクハラが起きる経済的・社会的文脈から切り離してしまうことを意味し、不十分であり、本質を捉え損ねると。問題なのは、背景にある性差別であると。
「セクハラは、女性という集団が受ける、集団的権利侵害である。女性であることが累積的に影響する背景がいたらしめるものである。」
「(性差別は)根本的に社会から一掃すべきものであり、それを損害賠償しうる個人的なものとみなすのは間違い」
(キャサリン・マッキノン「セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン」より)
マッキノンはアメリカの差別禁止法を強化し、もっと性差別に関して規定・制限を設けることを主張した。一方、日本には差別禁止法はない。ようやくヘイトスピーチ対策法ができた段階である。日本人の無意識にはびこる差別を、どうやって規制するのか、それが問われているのである。
【男性社会という無意識】
我が国では、企業でも家庭でも社会のあらゆるステージで、男性が重要な役割を担い、女性がその補助的なポジションにつくという「役割固定」の意識が根強い。そもそも東アジア圏の儒教思想に根を発する封建社会が、社会の基底にこびりついていて、(決して口には出さないが)女性に対して優位思想を持った男性もまだ多くいる。僕の世代ではさすがに少ないが、少し上の世代となると「女のくせに〜」「女なんだから〜」と平気でのたまう「おじさん・じいさん」はそこら中にいる。また「年長者を敬う」という年功序列の思想とあいまって、<年長>の<男性>が尊敬を受けるという社会ヒエラルキーは、二重三重に固く守られた既存システムがある。
そんな「おじさん・じいさん」の管理職向けのセクハラ防止講習を見ると、「お酌をさせちゃいけない」「おばさんよばわり、『ちゃん』づけはダメ」「容姿・年齢のからかいは禁止」など、聞けば絶望的に思えてしまう。セクハラを「痴漢は禁止」の延長で捉えている「おじさん・じいさん」も多いだろうが、決してそうではないのだ。重大な差別であるということ、相手の人権を踏みにじる深刻な罪であることを、もっと社会全体で厳格に共有すべきである。そのためにも性差別を法的に定義し、禁止することが望まれる。
【ハラスメント被害者が声をあげにくい社会】
日本社会からセクハラがなくならない要因は他にもある。
会社など組織において、声をあげた人間が逆にバッシングを受ける風土である。
特にSNSなどインターネット上で誹謗中傷は過酷で、この二次被害の方がむしろ辛いというケースも少なくない。Yahoo!の掲示板に見られるような匿名のバッシングが、日本人の甘えのメンタリティ、無責任の体質とベストマッチし悪い方向に増幅している。ネット上の誹謗中傷への規制はいまや世界的な課題であるが、日本でもやりたい放題の暴力的なカルチャーに成り果てている。いったん個人への攻撃・炎上が始まると、異常なほどバイラルな拡散(感染症的広がり)を示し、生身の人間では耐えられないという時代に今はなっている。
だからこそ、ネット上での個人情報の暴露、そこからの炎上を怖れて、セクハラ被害をできるだけ水面下で、誰にも知られず「火消し」するしかないと被害者も周りの関係者も考えてしまうのだ。
さらにそれに関連して、組織内外に被害者を保護するシステムが存在しないことも大きい。
【声を上げた被害者を守るシステムの欠如】
せっかく声を上げたのに、間違いを正すためのアクションを組織全体が起こすことはなく、個別案件として処理され、個人名はいつの間にか知れ渡り、同僚などの周囲の目にさらされ、だんだん当事者は居づらくなり辞めていくというハラスメントケースは少なくない。その大きな理由は、声を上げる人のための「駆け込み寺」と、声を上げて以降ありとあらゆる周囲環境的攻撃から持続的に守ってくれる「被害者保護のシステム」が欠如しているからではないか。
今のアメリカの企業文化では、汚職を密告したホイッスルブロワー(whistle blower密告者)や、ハラスメントを訴え出た被害者を、組織が自動的に保護するシステムが存在する。別部屋に隔離されて仕事を続け、会話は仲介となる別の人間を通さないとできなくする。組織に反する行動を取ったとき、個人が窮地に立たされるのを防ぐためだ。(アメリカ社会にも酷い側面は多々あるものの)この点においては、人権の保護意識が日本より徹底されている。個人という弱者を組織が保護することは今や常識であり、企業イメージを高めることに繋がっている。無論完璧ではないのだが、抑止力にもなる「弱者が訴えやすくなる保護システム」は日本でも導入するべきである。
一方日本は、様々な問題がぐちゃぐちゃのままである。
拙作映画「ある職場」でも被害者【早紀】は周囲に守ってもらえない。それどころかSNSに実名と写真が晒され中傷の的になる。「セクハラっていう罪はない」、人生が狂わされた加害者【熊中】がかわいそうだ、という男性社員(【野田】)がいたり、セクハラなんか我慢して部署移動しろという「名誉男性」の上司【牛原】がいたりと、議論も整理されず、めちゃくちゃである。そのうち、職場全体の空気を読むような意見が支配的になり、個人の人権は無視されたまま場は曖昧に流れてゆく。
論理立ててディベートする文化も、性差別への人権意識も、組織が弱者を抑圧しないようにする保護意識も薄い日本社会では、「もめごと」は整理されることなく延々と続き、個人は疲弊してゆく。映画前半の1回目のバカンスから後半2回目まで、半年の経過を描いた理由はここにある。結局、弱者を守れないシステムでは、被害者が押し潰され、疲れ切ってしまうのだ。だからセクハラ被害者はどんなに辛くとも、過去は水に流して新たな場所でやりなおす方を選ぶ。そして、組織は改善されぬまま現状維持が続くのだ。
【混乱の後に】
僕は映画作家として時代の無意識を描き出したいと考えている。
「ある職場」は、今の社会がいかに未成熟かを描きだした作品である。
人権意識の希薄な人間が寄り集まり、正しいことと間違っていることの線を引く事のできないとき、混乱は続く。人間関係は悪化の一途を辿り、誹謗中傷の二次被害は様々な善意と悪意に翻弄され、広がり続ける。
差別意識が微塵もない加害者の悪意、穏便に揉み消そうとする上司の保守意識、互いを疑う同僚たちの闇、そして傷ついた被害者女性の悲哀――心の奥底に降りてゆくような精神の映画にしたいと考え、モノクロームの色調を選んだ。
人間の弱さと愚かさが露呈した大混乱のあと、本当に大切なものとはなにか?と問いかける映画になってほしいと願っている。