今日は311。
報道は「あれから14年」というレポートで一色。
東北ではもう復興をすっかり果たして次のフェーズに移った自治体も多く(森林火災で新たにダメージを受けた大船渡などを除く)、自宅を新しく建て落ち着いた人や、移転して他の土地で学校や勤め先などで落ち着いた人々も少なくなく、復興の最初のフェーズによく謳われた「コミュニティを取り戻す」という言葉は聞こえなくなり、むしろ、個々人の暮らし、「自己実現」を目指すための新たな日常のフェーズになっており、ニュースのヘッドラインに踊る<あれから14年>は、いったいどのような意味があるのだろうか、と考えてしまった。
というのも、<あれから●年>の区切りよりも、その区切りと区切りの<あいだの時間>に横たわるものこそ大事なのではないかと思うからだ。
2011年3月福島原発事故をうけて、双葉町民はバスにのり埼玉県の旧騎西高校に避難した。首都圏まで引っ越してきた被災自治体であり、かつ原発立地市町村である双葉町は、メディアの関心と中心となり、埼玉の田園地帯にある廃校へ、毎日大勢の報道陣が押し掛けた。
僕もそのリポーターやカメラマンの渦に交じり、毎日この廃校を訪れ、双葉町民の「避難生活」の取材を続けた。原発事故から1か月ほどは蔓延っていた大量の報道陣も、4月の下旬から少しずつ減りだし、5月には半分になり、6月にはさらに減り、7月以降になると、事故状況が進展したり、避難者への補償政策が発表されるなど、新たなニュースが公表されたときにのみ取材に来るようになった。例外は、各月11日の月命日。報道陣はごっそり避難所に押し寄せ「あの悲劇からもう〇か月となりました」と口々にレポートを撮影していた。
僕の方は、ほぼ毎日避難所に通いつめ、双葉町の方々とカメラなしで話す間柄から、次第に心を許してもらい、また町役場からも許諾をもらい、避難所の中で町民の皆さんを撮影するようになった。報道陣もいなくなった避難所で、一人通い詰めた。その時は理論化できていなかったが直感的に、ステレオタイプな「避難生活」は撮影するまいと思った。
そして旧騎西高校の「美術室」に避難されている皆さんと仲良くなった。買い物やそうじの手伝いをしながら、話を伺ったり、合間に撮影をさせていただくという日々が続いた。
当初は、原発事故が今のように何十年もかかる長大な作業になるとは誰もわからなかった。むしろ、1,2か月で町へ帰れるんじゃないかと無根拠な期待を寄せている人の方が多かった。僕もその一人だった。その期待が、日一日ごとに、少しずつ薄れてゆき、「原発事故」という未体験の災害の本質――放射性物質が飛散し日本の広大な地域が汚されたこと、そこには長らく住めないという事実――を受け止める時間、そして、いつ帰還できるかわからないという恐ろしい現実を受け入れる時間こそ、ドキュメンタリーで描くべきだと考えた。
そして、その実感は<間(あいだ)>の時間に訪れるんじゃないかと思えた。
月命日と月命日の間、
町による記者会見と記者会見の間、
お弁当による食事と食事の間、
次の生活のために住処や働き口を探す日中と日中の間=つまり、夜の時間、
他人に対して外向きに話す時間と時間の間=つまり、ひとりきりの時間、
など、ジャーナリズムのヘッドラインからは決して見えてこない、全く目立たないけど、だからこそ人間の弱さや生きていこうともがく葛藤が見えてくる<間>の時間が大事だと思えた。
それを積み重ね、編集したのがドキュメンタリー「NUCLEAR NATION フタバから遠く離れて」シリーズであった。その撮影は今も続いており、近い将来まとまった形で発表したいと思っている。
双葉町と大熊町の帰還困難区域内にある中間貯蔵施設には、除染などから出た土や放射性廃棄物が山高く貯めこまれている。3月13日で運び入れ開始からちょうど10年になる。
そして、2045年3月までにこれらすべて福島県外に運び出され、「最終処分」することが法律で定められている。もう残り20年だが、最終処分場がどこになるのかは全く見えていない。
運び込まれた量は、東京ドーム約11個分に相当し、このうち4分の3ほどにあたる放射性物質の濃度が低い土は、全国の公共工事などで「再生利用」される方針である。しかし、東京や埼玉で計画された実証事業は、地元の反対があり進んでいない。
伊澤史朗双葉町長は、町内で「再生利用」をする私案を先日記者に発表した。本人曰く「福島で理解が進まないまま、(かつて電力を送っていた)首都圏の協力を得ることは難しいだろう」と述べ、他の地域への広がりを期待しての発言だったのだが、引いた眼でみれば、原発の町がすべてを背負わされてゆくダウンスパイラルの入口、いや、入口は遠の昔に過ぎており、折り返し点よりさらに向こうの、とどめの一歩手前というべきかもしれない。
福島第一原発の廃炉は、事故から40年となる2051年までの完了予定だという。しかし、溶け落ちた核燃料デブリの取り出しは、すでに予定より大幅に遅れている。おそらく大幅に先になるだろう。僕らは生きていないかもしれない。
福島と近県にまき散らされた放射性物質の半減期は、(短いものも無論あるが)ストロンチウムが28年、セシウム137が30年、 プルトニウム239が24000年など、人間がいま判断して考えられるスパンをゆうに超えている。
つまりはこうだ。
<区切り>の時間を大事にしたがるのは、捉えどころのない時間というものをロゴス化しようとする僕たち人間の習性なのだと思うが、この原発事故にまつわる時間とは、
人間が捉えきれない<核>の時間
と
それに戸惑い、迷い続ける人間たちの<間>の時間
の集積なのではないかと思う。
だからこそ、この<区切り>に翻弄されず、ぬるりと続いてゆく時間に目を向けていたい。
それは、原子力による災害の本質を直視し、プロメテウスの炎に手を出してしまった人間の業を沈思させてくれると思うからだ。
#311 #Fukushima #原発事故