都市的映画の過剰さ – Girl With The Dragon Tattoo

映画としてはあと60分削っても成立するのだが、シーンごと、ショットごとにみれば傑出したエステティクスと精密さ、効率性によって磨き上げられた輝きを放つ一作。
フィンチャーはどれもそうだが、凝縮された画面でスナッピーにショットと演出が加速してゆくのは極めて都市的な作家性と言え、連作することでクルー・製作体制を維持するという作品外の成立要因があるのではないかと思えるほど、脚本段階での精査に驚くほど時間が割かれていない。
この作品にしても、スウェーデンの投資家富豪一家に起きた少女の失踪事件を追及してゆく、wired のような都市系マガジンチーフエディターの冒険譚であるのだが、この富豪一家の謎を解く下りで結局は本筋に関係ない箇所が無駄に長かったり、題名にあるドラゴンタトゥーの女が金に困り身体を売ってハードに生き抜いている様(=要はキャラクターのエスタブリッシュメント)を描くシーンが延々と続き、それが結局チーフエディターと共犯関係になるまで90分費やしているさまを見ていると、ディテールの過剰さに引っ張られすぎて巨視的な語りの効率性に欠けていると言わねばならない。
見渡せば、「戦火の馬」「ヒューゴの不思議な発明」のように、2時間〜2時間半のハリウッド作品は珍しくなく、このフィンチャーの作品も、ドルビーサラウンドとデジタルポスプロ/3Gによる豊穣な視聴体験にドライブされたハリウッド資本の過剰さに連なる。これの是か非かは見極めがたく、しかし長いなぁと思いつつも、やはり映画館には足を運んでしまう・・・。そもそもドラゴンタトゥーに何の意味があったのか。
映像の過剰さにより意味が空洞化するコマーシャル的感性が、フィンチャーの弱点といえよう。
とはいえ、ドラゴンタトゥーの女は、ここ数年のハリウッド作品の中でもっとも魅力的な女性造形と言え、真っ黒のジャンキーパンクだった彼女が、富裕層ユーロブロンドに変装しスイスの銀行を落とすくだりは、背筋がゾクゾクしたと白状しよう。やっぱりおもしろいのだ。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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