João Pedro Rodrigues “O Fantasma” 2000 

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いままで全くノーマークだったポルトガルの作家ジョアン・ペドロ・ロドリゲス。
「トラス・オス・モンテス」のアントニオ・レイスを師と仰ぎ、いくつかウェブにアップされた画面のスチルをいくつか見ただけでも、「スジ」がいいのははっきりしている。オリヴェイラは別格だが、コスタやミゲル・ゴメスなど才能には事欠かない現代ポルトガル映画界でさらに無視できない才能がまだ存在するというのは、嫉妬にもにた感情を覚える。
漸く今日処女作「ファンタズマ」一本だけを見たのだが、残りのレトロスペクティブには通わなければいけないことが確定した。
コスタの「骨」のような、青く湿った裏街でゴミ収集車の後ろに乗り、町の廃棄物を夜中に集め回っている作業員の男。
具体的な町並みが示されることはなく、家や庭、停車中の車などに忍び込む男の足取りだけを、キャメラは追い続け、画面の外の騒音や航空機の通過音などでどうやら込み入った都市部の暗部なのであるということが、肌感覚として伝わってくるのみである。この説明を悉く排除した美しさは、監督いわく「生物学を志してきた、動物的な本能の権化がセルジオ(主人公)だ」という世界観と通底しているのかもしれない。
黒光りするボディースーツが、露光限界まで追い込んだフィルムの上に、黒くぬっとりと鈍い輝きを放つ。
Demon Lover, Holly Motors , O Fantsma と、都市とボディスーツというサブジャンルが見えてくる。殺伐としてた都会の片隅で、渇ききった感性の人間達は、やがて動物に先祖返りし、ボティスーツの硬質で且つぬるりとした肌感覚、それはまるで昆虫のような異物へと「変身」してしまう。カフカを出すまでもなく、現代社会の抑圧に耐えかねた人間が、他人を遮断(=攻撃)するか、セックスをするかの二者択一しかない、欲動のみの異生物に姿を変えるというメタファーは文学に起源を求めることができるかもしれない。
DCP上映が圧倒的優勢な現代で、35ミリプリントでの上映を強制するような、映画的な闇をストイックに追求している。
そう、作家が今日のティーチインでいってた「尊敬する作家」ブレッソンの「白夜」のように、35ミリプリントに定着された夜闇は本当に美しかった。
ロドリゲスは、「まず12日に逝去されたYoichi Umemoto に今日の集まりを捧げたい」と語った。彼の言葉はめっぽう真摯で興味深く、「ファンタズマ」はリスボン北部のホームタウンで「子供のころ見た光景のミステリー、魅惑を炙り出そうとした」作品だという。
引きのショットがほとんど無く、中景かクローズアップで都市の息づかいを掴み取る技術は圧倒的で、闇の中で何かをずっとまさぐり続けているかのような触感的な持続に痺れた。ゲイのラブシーンもあくまでも局部的な視点に限られ、その断片ばかりがごつごつとぶつかりあうように映画が進展して行くさまは、いってみればドワイヨン的なウェットな持続世界というよりも、断絶により省略を生むブレッソンの世界観に近い。しかし、それにさらにヴァンパイア、フランケンシュタインのようなモンスターが現代化して、降臨しているといおうか。そういえば、「ミツバチの囁き」のアナ・トレントはフランケンシュタインのことを、Fantasma と呼んでいたな、と思いだした。
いずれにせよ、この作家のレトロスペクティブは覚悟を持ってフォローしたい。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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