Straub-Huillet 三本!

tooearly27nov


早すぎる、遅すぎる
Trop tôt, Trop tard
1980年-81年(101分)
撮影/ウィリアム・ルプシャンスキ(第一部)、ロベール・アラズラキ(第二部)
風景が映し出される中、第一部ではエンゲルスのカウツキー宛て書簡に基づき、18世紀末フランス農村の貧困状況が分析され、第二部では、マルクス主義的階級史観に基づき、近現代のエジプトにおける農民蜂起の歴史が画面外で語られる。(アテネ・フランセのチラシより)
昨日まで自作の編集に忙殺されていたため、今日から娑婆に復帰。いかん、伊藤大輔(NFC)など殆どいけなかったと嘆きつつ、今前半戦を終了しつつあるストローブ=ユイレ特集(アテネ)と今週末からのフィルメックスとマキノ特集(新文芸座)で巻き返しを図ろうと決意。タイトルが何かを示唆してのだろうか、この作品には遅れてはならぬと思いながらアテネに駆けつけると10分ほど遅刻してしまった。
闇の中で静かに着席してみると、フランスの農村が左右の往復パンによっていくつもモンタージュされる中、村々の貧困の窮状がぶっきらぼうな朗読の声を通し投げかけられる。ポプラの木がつらつらと並んでいる、ゆるい田園が16ミリ特有の曖昧な解像感と相俟って「これもいいなぁ」と耽溺。後半のエジプトの植民地支配脱却、市民政権奪還の歴史は、途中、報道フッテージらしきものがインサートされるにもかかわらず、全く状況説明を欠落させており、見事にS-H時空間に収まっている。そんな事実関係はどうでもよろしい、この濃い土の色と、強い日差しの中、のっそりと川の中から姿を現す黒い牛を見たまえ、といっているかのようだ。
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アン・ ラシャシャン
En Rachâchant
1982年(8分)
撮影/アンリ・アルカン
五月革命の影響下に書かれたマルグリット・ デュラス唯一の童話「ああ!エルネスト」の映画化。7歳の小学生エルネストは登校拒否宣言をし、両親と共に小学校の教室で教師と面談する。だが教師は結局、エルネストを説得することができない。(アテネ・フランセのチラシより)
このガキが最高。空の画面にゆっくりした足取りで大人が入ってきて発言したり、「暴力はやめて」という少年の母親を、後ろ気味の横から窓をバックにとらえるという唐突な繋ぎがあったりと、あくまで落ち着きを払ったS-H演劇空間なのだが、そこにすんなりと溶け込んでいるメガネ少年の口悪さには苦笑するしかないというよりも、キアロスタミばりのS-Hの狡猾さにうなった。
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アメリカ(階級関係)
Klassenverhältnisse
1983年-84年(126分)
撮影/ウィリアム・ルプシャンスキ
カフカの未完の長編小説「失踪者」(旧題「アメリカ」)の映画化。故郷を追われ、船で単身アメリカにやってきたドイツ人青年カール・ロスマンが様々な階級関係の中で挫折と抵抗を繰り返す。主要場面はハンブルクとブレーメンで撮影された。(アテネ・フランセのチラシより)
Big River を公開した2年前、ある恩師からこの作品を見た方がよいと薦められた作品。その後友人の助力でビデオで見たのだが、その16ミリプリントを初体験。ニューヨークへドイツ客船に乗りやってきたドイツ人青年が、アメリカの地で新たな仕事、人生を探るという枠組みであるものの全くアメリカではロケせず、殆どドイツで撮ってしまっており(レンガのアパートなど明らかにアメリカのものではなかった)、異形のアメリカという空間が、これしかないという説得力を持って作り上げている。なるほど、こういうことなのか、映画って、と本当に遅ればせながら納得しました。ペキンパーの退廃したロードムービーといい、サミュエル・フラーの獰猛犬ホラー(White Dog)といい、突然歌い出す自然さに嬉しくなってしまう和製ミュージカル(鈴木英夫「大番頭、小番頭」といい、どれもよぉく見ると不自然きわまりない設定を、納得できうる光と風土と人の動きにはめ込み、異化してしまう作家の腕がある。そこなんだな、と実感した次第。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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