2013年が暮れようとしているいま、怒濤のごとく過ぎ去った一年を少しだけ振り返ってみたい。
今年のちょうど今頃は、衆参両院総選挙は自民圧勝、都知事選は宇都宮けんじ氏惨敗に終わり、大げさでなく民主主義への絶望を深く、深く感じていた。投票率59.32%と戦後最低の記録更新し、選挙に行かない層がマジョリティになっており、その人々との途方もない距離をどう近づけてよいか、分からないという無力感と言った方がいいだろうか。
自分のことでありながら、自分のことのように感じられる実感が限りなく薄いーーそれがいま日本の間接民主主義が陥っている袋小路であると思う。
特定秘密保護法により、環境汚染、放射性物質拡散、軍備拡大もしくは臨戦などの脅威を、政府が我々から隠すことができる。(もちろん他の不利益もあまたあるが例えば)TPP全面参加により、国民皆保険制度は崩壊するかもしれない。そして、福島無視・原発再稼働によって、我々の子供たちをさらなる被爆リスクと膨大な核廃棄物、借金、地方軽視の負の産業スパイラルへさらに引き込むことになる。さらに、今はつかの間の休戦状態になっているが、安倍政権が確実に視野に入れている憲法9条改正は、戦後の日本人が全てを賭けて築き上げてきた平和主義・非戦の誓いを根底からひっくり返し、力と力で牽制し合う男性的な対立社会へ逆戻りを意味する。
今述べた4つのことは全て我々の生活・人生に直結している「はずだ」。
なのに、投票率は低迷する。そして低迷のなか、票は上記全てを推進する自民党を全面支持した。理由ははっきりしていた。経済である。
遠い福島のことよりも、よくわからないTPPのことよりも、そんなすぐ起こるとも思えない戦争のことよりも、いま目の前の生活であり、経済が上昇してゆく、そんな目に見える、手で掴める実感を求めているのかもしれない。
果てしなく遠くに感じられる政治について、自分が目にできる、手に取れる結果を出してくれる政権に票を投じようとするのは、当然という人もいるだろう。
こうして今年、“アベノミクス”に対するとりあえずの信任が継続された。そして、領土問題、歴史認識などで中国・韓国を刺激し、対外問題を作り上げることで右傾化—>再軍備を認めさせ、支持率拡大を狙おうとしてきた。比較するだけでげんなりするが、911後の米ブッシュ政権に酷似している。国難があった後、大きな物語・フィクションをぶち上げ、対外危機を作り上げる。Scare Tactics と呼ばれ、恐怖で人々をあおり、国民の結束を促し、それを自分の支持に繋げるという、古代から見られる前近代的、前民主主義的政治手法である。
そんな中、首相は靖国神社を参拝した。
NYタイムズの社説は、「就任以来、『対外危機』を作り上げ、煽り続けた安倍政権。靖国参拝は国民に対する宣伝工作が、うまくいっているかどうかを確認するための試金石。アジア社会の信頼、平和、そして未来を破壊する安倍首相の政策」
と喝破し、扱き下ろした。なぜこんな煽動に我々はのせられなければならないのか。ここは前近代的な、人をバカにした恐怖政治ではなく、ここは民主主義の国なのだ、と怒る人々がもっと、もっと声を上げるべきだと思う。
12月、ニューヨークで「フタバから遠く離れて」の全米公開がスタートしたとき、いろんなアメリカ人(正確にはアメリカ在住の人々)とアジア情勢について議論した。そこで皆が口をそろえたのは、
「いまアメリカの一番のパートナーは、中国である。アメリカを追い抜くのも時間の問題である現在、中国は脅威であり、無視できない朋友である。」ということだった。
そして、日米関係については、「日本のアベは、及第点。経済が上向きなのは、アメリカにも好影響だ。フクシマだとか、再稼働だとかは、日本の国内問題なので正直、重要ではない。放射能だけこっちに来ないよう抑えてくれれば良い。しかし、中国を過度に刺激するのは良くない。もし日本と中国が戦争になったら、間違いなくアメリカは中国につくだろう」という見方が殆どだった。今、米政府が公表した”disappointed (失望)”がどの程度の表現なのか、メディアが書き立てているが、僕がニューヨークの知人と話した肌感覚で言うと、まだ深刻な注意を与えるまでもない、軽い忠告程度のものであると思う。あくまで重要なのは中国であり、日本はそこを刺激してくれるな、アップル製品をはじめ中国はアメリカ資本主義の主要工場であり、戦争でかき乱されては困る、というスタンスだと思う。
そんな状況下であるから、「フタバから遠く離れて」の上映後のディスカッションでは、フクシマの人々が放置され続ける現状に、日本の政治の機能不全を心配する声が聞かれた。6年で首相が6回代わり、こんな原発事故が遭っても人々が賠償もなしに放置され、再稼働に突き進む国。人々の声は、政治に繁栄されているのか、いやむしろ、日本人はこの現状を間違っていると思わないのか。
耳の痛い話だった。
(明日、つまり来年に続く)