中国では、いや、スマホとネットに溢れた現代都市では、人は感性を押し殺して表面的に生き続けるしかないのだろうか。Lou Ye(ロウ・イエ)の最新作は、グローバル経済に飲み込まれた都市の極めて不安定な状況で、かろうじて表層を横滑りし続けることが生きるための唯一の遊戯の規則であるような男女が差し出される。
有力者の子ども達が高速道路でチキンレースをしている見事なシーンから幕明けるこの傑作は、極めて個人主義で他人の犠牲など眼中にない男女が、ある一つの自動車事故をきっかけに利害が絡み合い、緩やかに矛盾が露呈してゆく。
現代ならマイケル・ハネケ、もしくはイ・チャンドン。過去であれば成瀬巳喜男が追求しそうな、“人間の業”や“生きる意味”の浮上は、この作品にはない。あくまで自己の、自分の家族だけの、目の前の利害のためだけに生きている人間達。政治が二重であるように、生活も二重、もしくは多重であり、その重複の矛盾を一切解消しないまま放置するのが、現代中国であると括ってみることは可能だが、それよりも映画がこの人生の「多重性」をどのように描いているのか、を観察する方がめっぽう面白い。
幼い娘と妻のいる男が、愛人とその子ども(男子)を秘密裏に囲っているのだが、誰もが考えつく夫・妻・愛人鉢合わせを、ルビッチばりの見事な遊戯の精神によって思わぬ笑いを引き起こす。
まず夫の浮気を知った妻は、感情的に怒り狂ったりなどしない。虎視眈々と復讐を考え、子ども達が同じ幼稚園であることを利用し、愛人を買い物に誘い、お揃いの白いシャツを一緒に買う。(夫のクレジットカードで)それを着た妻を見た夫が、次のシーケンスで同じシャツを着た愛人に怒り狂う。妻に対しては、不倫を黙秘し続けるが、幼稚園で一緒にあそぶ愛人の子どもと愛娘の写真をこれ見よがしに見せつける妻。もうすでに不倫はバレバレだが、夫は苦しいダンマリを続ける。本来であれば敵対してもおかしくない妻と愛人は共犯関係を築き上げ、ある日子どもたちと一緒に、愛人宅で夫を待ち受ける。その後がどう展開するのかーーステレオタイプの愛憎が映画ならではの転覆により、新たなゲームの規則を生み出しているのが、この作品の際立っている点である。
類い希な喜劇の演出とサスペンスを両立させたロウ・イエは、相当映画(特に60〜70年代の日本映画)を研究しているはすだ。