Director: Robert Bresson
Writer: Fyodor Dostoevsky (from the short story by)
Actors: Dominique Sanda, Guy Frangin, Jeanne Lobre |
扉を開け、閉じること。
そのノブの上下動の動きと音の微細さに、神経を張り巡らすのが、ブレッソンをみつめることなのかもしれない。
実際、この作品では、屋外と屋内、部屋と部屋の境界であるドアが、説話空間を切り分け、凡庸な意味ではなく肉体の存在論的な意味での人物の距離=ドラマを切り隔てる装置として、有効に機能している。
屋外から妻(ドミニク・サンダ)が二人の経営する質屋に戻るとき、扉を開ける行為はすなわち、視線を夫と対峙させ、得も言えぬ倦怠と抑圧を受け止めることを意味した。3階にある夫婦の寝室へ、夫が不意に扉を開くことは、そこで孤独に沈む妻の存在への「侵入」を指し示した。扉を押し開けることの暴力性が、男女の心理空間をかき乱す無声映画的アクションとして機能していることに、はっと息をのみ、心を震わせてしまうのは、足音、紙幣など物の受け渡し、食器の掠れ合う音など、ミニマムに選択された音声空間が、我々の感性をより繊細に押し広げるからだ。
そして、扉の開閉を易々と行うことは許されず、ひたすら廊下や階段の翳りに身を退ける家政婦の老婆が、ガラスの扉越しにドラマの最後を見届けるという皮肉。境界は侵されない、しかし、扉により隔てられた距離は、永遠と埋まることはなく、妻はその閉じられた空間より身を消し去ることを望むという悲劇は、テマティックな扉という舞台装置が導いた、出来すぎた結末である。
恋愛映画とは、空間での肉体と肉体の距離の伸縮をいかに刺激的に見せるか、で競われるサスペンスと言えるかもしれぬ。