書評「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」(雁屋哲著)

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【以下、出版ニュースへ寄せた原稿を一部修正して掲載します。舩橋】
誠実な取材に基づく、誠実な論考である。
福島を渡り歩いて見聞きした事実と、その後漫画の原作執筆の時に調べ上げた低線量被ばく、体内被ばくなどの国際的科学的知見を照らし合わし、「鼻血は事実」「福島から逃げる勇気を」と提案した本質ど真ん中の議論である。
筆者がうけた鼻血問題に関する批判は、①(筆者が)被ばくした程度の低レベル放射線で鼻血が出るという根拠がない、②福島は危険であるような風評被害を与えた、であった。それが科学的知見に基づく反論であれば、生産的な議論ともなったであろうがビッグコミックスピリッツ編集部に寄せられた殆どが、恫喝にも似たバッシング・中傷であったという。
筆者は、議論の核心を科学的に探求しようとすることなく、問題の周辺で闇雲に騒ぎ立てることの愚かさを批判しつつ、自分が見聞きしたフィールドワークのデータと専門家への取材から学んだ科学的知見を照合し、なぜ「今の福島の環境なら、鼻血が出る人はいる」のか、なぜ「福島から逃げるべき」なのかを論証してゆく。
いわゆる「風評被害」なのか否かは、あくまでも科学的に議論すべきであるのに、国・福島県が押し進める福島の安全・安心キャンペーン、さらに福島の人々が抱く復興への思いが作り出す巨大な福島の現状についてのポジティブイメージを瓦解させたとして、筆者は敵視された。
ここではっきり峻別されるべきは、感情と理性のごちゃ混ぜ状態である。
「感情」とは、福島の復興を応援したいと思う気持ち、福島が安全であって欲しいという思い、である。「理性」とは、科学的知見に基づく放射能の安全性への判断である。つまり、ICRP(国際放射線防護委員会)が定める被ばく許容量1mSv/年を超えている環境で、低線量被ばく、(飲食、呼吸による)内部被曝を受けつつ生きてゆくリスクの是非である。「美味しんぼ」の鼻血は、「感情」を抉るショックだった。それに「感情」から拒絶反応を示したのが今回の騒動であり、「理性」を直視せず、「感情」が「理性」を抑圧し、意識下に押し込めてしまうメカニズムであった。
 それは南京大虐殺、従軍慰安婦(Sex Slaves)などの加害の歴史と未だ向き合えない、日本人の習性に通底しているといってもよいかもしれない。合理的な分析で、感情を制することができないのだ。
 ここで我々が問題にすべき本質とは、「感情」と「理性」の相反するジレンマを背負い込む覚悟と行動である。東京電力と国によって引き起こされた人類史上最悪の原子力災害による「戦犯」が未だ誰も処罰されていない中、あらゆる局面で「加害者は遠くにいるはずなのに、そんなこといっても何も解決しない問題が目の前にある」のが今の福島だ。このジレンマをどこまで背負い込み、人々の復興に向けた提言と行動を示してゆくかが、福島を語る上で絶対不可欠な倫理的スタンスだと私は考える。
 ネットでのバッシングや電話攻撃は、自らのコンフォート・ゾーン(安全地帯)から一歩も出ず、ジレンマを背負い込むことを避ける無責任なものが多い。本気でジレンマを背負い込むことは厳しく辛いことであり、何がなんでも実効的なソリューションを見つけてやる、という執念がないことには持続しない。福島県内では、このジレンマを正面から背負い込み、除染を徹底し、放射線量を国の基準値100ベクレル以下を達成しようと全力で立ち向かっている農家がある。(その甲斐あって、今年福島県産の米は、基準値以上が初めてゼロとなった)私自身もドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」の取材のため、福島県内でそのような農家の方のご苦労を聞いていると、人間的な「感情」の方にどうしても偏ってしまう。それは間違っている訳でなく、福島で被ばくを強いられている人々の日々のジレンマを一緒に背負い込む当事者意識があってこそ、その議論は聞くに値するものとなる。
 つまり、「べき」論、正論はいくらでも吐ける。しかし、今の福島では、様々な問題が未解決のまま放置されており、その現場のジレンマを共に背負い込まないことには、実効的価値はゼロなのである。
 その点、雁屋哲氏の取材は徹底している。部外者なりにできること=最大限知性的なアプローチと人間的な温かみを持って、福島の豊かな食文化と自然に向き合っている。南相馬市小高地区の米農家が、ゼオライトとカリウムを土壌に混ぜる「試験田」で米を1年育てた後、収穫し線量がたとえ出なくても、自宅で食べることは出来ず、全量田んぼに捨てなければならない。我が手で育てた米を捨てる農家の無念さ、切なさが痛いほど伝わって来る描写があり、雁屋氏も現地で涙したに違いない。そのような「感情」を全て背負い込みながら、「理性」と付き合わせてゆく作業(=ジレンマ)こそ、福島の未来に向けた生産的な言質になると考えた筆者のスタンスは正しい。
 しかし、幾つかの綻びもある。まず鼻血問題ばかりに拘りすぎて、被ばくの現状況への対策論が薄い点。つまり、福島県内には現在まで117人の小児甲状腺がんが報告されており、その分布は線量マップのそれに一致する。一刻も早く「最も酷い症状がでている地域」へ対策を急ぐべきである、ということ。チェルノブイリの知見からすれば、無論鼻血はあるが、それ以上の病状にリソースを集中させ、避難・保養などを一刻も早く為すべきということだ。
 「福島から逃げる勇気を持ってください」とは、誠実な言葉である。しかし、国が人命よりも被害の極小化を優先させるという「裏切りの時代」において、仕事や家族など止むに止まれぬ理由で、福島で被ばくをしつつ生きてゆくことを選択した人々がいる。その人々に対してどんな言葉を掛けることができるのだろうか。筆者の背負い込んだジレンマより、さらに踏み込んだまさに「生きる為のジレンマ」を抱く人々への言葉にはなり得ていない。それは、昨年暮れ、脱原発候補の二人熊坂義裕・井戸川克隆氏が福島県知事選で苦戦した理由の核心でもあった。
 最後に、「話題となっているから、売れるから出したんだろう」と炎上商法と見なされる風潮に対する徹底抗戦の構えとして、著者は印税ゼロ(もしくはカット)、出版社は売り上げの一部を寄付など、社会的意義をしっかり打ち出す、「脇固め」は必要だったのではないか、と私は思う。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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