映画には、世界の広がりをそのまま画面に表現しようとするものと、小さな窓から限られた空間を見つめることでその外部との関係から、世界のあり方を照射するものとがある。前者は、近年アカデミー賞を占めている「Argo」や「Birdman」など、キャメラが自由自在にあらゆる場所に飛び回り(今それはドローンで加速している)、至る所にキャメラがゆくことで人の想像を凌駕する「見せつける」映画であり、後者は、派手で賑やかそうな外部の世界からは身を退かせ、こじんまりとした空間の中にレンズを置き、そこで見えてくる親密な細部から、思わぬ発見に出会い、それが実は世界に通じているのだ、と人の想像力を増幅させるまで辛抱強く見る者と寄り添う、「ともに見る」映画である。
想田和弘の「牡蠣工場」はまさしく後者の「ともに見る」映画である。
岡山の小さな港町・牛窓。そこで繰り広げられる牡蠣の養殖業に腰を据え、そこに流れる時間「だけ」に集中することで、この世界の様々な問題が浮上してくる。集中することの力は、世界の表面をさっと撫でて見た気になってしまうネット文化とは逆方向の、感性の在処を見る者に発見させる。
「選挙」「演劇」など題名だけは、まだ一般性を持ったものを選んでいたこの作家が、「工場」ではなく、「牡蠣工場」とさらに細部化したそれを選んだことにも、その集中する力への信頼がより増してきていると言えるかもしれない。