監督・加藤泰 1968 90分
出演:佐藤允 倍賞千恵子
激しすぎる。
こんな激しい映画はみたことない。
一瞬一瞬が熱湯のような映画。
加藤泰の血しぶきが全てのフレームに詰め込まれた激情の映画である。
主人公たちは常に、一点を凝視してぷるぷる震えているか、
泣き叫んでいるか、のどちらかで、
怒り狂うものと、泣き叫ぶものと、茫然自失のものたちだけで画面が占められている。
なぜだろう、いつも水が「ガッーーーーーー!」と出しっ放し全開で、汗が吹き出た暑苦しい男たちが無意味にすぐそこの建設現場で働いており、それが殺人現場に「なぜか!」隣接している。それら無意味さが正当化されるのこそが、映画であると気づかされる。
主人公、時効寸前の逃亡殺人犯(佐藤允)が心を通わす女・はるちゃん(倍賞千恵子)は場末の中華屋で働いているのだが、閉店後に入ってきた殺し屋は、「もう火を消しちゃった。店を閉じるんだよ。簡単なもんだったら・・・」と言ってるのに、わざわざ「かつ丼」を注文し、なぜかその要望は受け入れられる。「なんで?」の連続なのに、その画面があまりにも暑苦しい密度に満ちているため、見る者は納得する。
そう、これは細部の突出の映画。さんざん見せられる有閑マダムたちのマンションも、結局全体像はわからず、闇の部屋という印象だけが残る。
中華屋のはるちゃんと殺し屋がしんみり話す原っぱなんか、いったいどこなのか? 荒川の土手が好きだといっていたから、荒川の土手なのだろうか。
しかし、このシーン、最初は「なぜか!」佐藤の指に刺さったとげをはるちゃんが針で抜いてやり、「ぎゅっ」と出血した指をすってやるカットから始まり(意味不明だが、激しい顔のアップの応酬!!)、ポンと引いたロングショットでかろうじて原っぱ(荒野か?と思えてしまう)だとわかり、ぼんやりと薄くなったはるちゃんの横顔がなんとも美しく、記憶から消し難い。そして、また違った角度からの引きのショットへと繋がり、遠くから強烈な夕陽が二人に襲いかかる。おもむろに立ち上がった二人の間には「なぜか!」高低差があり、高いところから飛び降りるようにして、はるちゃんにダイレクトに抱きつく殺し屋がいる。その落下運動の激しさ!!
こんな細部、忘れろといっても忘れられないような演出が盛りたくさんなのだ!それらは「なぜか!」という無意味さを軽々と凌駕してゆく。
物語は、うぶなクリーニング屋の青年を輪姦した新宿クラブのマダムたち5人を、「おまえたちは寄ってたかって、一番きれいなものをめちゃくちゃに汚しやがった!そんなことがまかり通るのか!?そんなことじゃ、神も仏もねぇじゃねえか?!」と逃亡殺人犯(佐藤)が怒りの鉄拳で、一人ずつマダムを殺してゆくというもの。だが、よくよく考えると、そんなんで5人も虐殺するのか、と思ってしまう(その意見は刑事の口からも漏れており、映画中もちゃんとフォローはされている。脚本構成の秀逸さ)のだが、極端に思い詰めてしまう正義感の強い人間がえてして社会ののけ者にされてしまう、という加藤泰が込めたアイロニーが熱く画面にみなぎっていた。
映画は、「どんな理由でも殺人は罪なのか?」ときわどい問いを熱く投げかける。
殺人に走る者は、わかりやすい悪人などごく少数で、実は繊細で極端に思い詰めてしまう正義の人間が、不器用に突っ走ってしまった悲劇ばかりなのではないか。
社会で弱者、悪人とレッテルを張られる人間を擁護する熱い思いが、加藤泰の根底に流れるもの。
その熱量に僕らは圧倒され、熱狂し、共感する。