すぐれたアート作品は、時代の無意識を突き、本質的な議論を喚起するもの。
大きな物議を醸し、社会の問題について多くの人が議論を交わすきっかけにもなる。それがアートの大事な役割の一つであり、僕はあいちトリエンナーレ2019の「平和の少女像」の展示は継続すべきだと考える。
これを検閲し閉鎖するのはまさしく全体主義であり、国や政府による個人の抑圧につながる。これは既に多くの人が指摘している。
そしてさらに、これに対する反論としていつも出てくるのが、
「公的なイベントに政治的なものを持ち込んだ展示はふさわしくないのではないか」という懸念。これは三つの点で間違っている。それを詳しく書きたいと思う。
一つは、憲法の保障する表現の自由が条件つきではない点。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(第二十一条)」
→あらゆる芸術的表現を検閲し、止めさせる権利は、誰も持たない。
(もちろん見る、見ない、行く、行かないは個人の自由。)
もう一つは、公的なイベントだからこそ、国家が過去に犯した罪であり、まだまだ万人が納得する形で反省・清算できていない従軍慰安婦問題を扱ったアート作品は、多くの人に見てもらう価値があるという点。多くの人々が認識し、深く考えてみる価値がある問題なのだから。
これを否定すると、広島・長島の原爆資料館に公的資金を投入することも否定することになる。国家の政治対立の最大の悲劇が戦争なのだから。ここに日本人の隠れた欺瞞がある。戦争の被害者としてのヒロシマ・ナガサキは、公的なイベントとして受け入れられるが、戦争の加害者としての従軍慰安婦問題は、公的なイベントとしてはいやがる。後ろめたいからだ。そんなんだから戦後74年が経っても隣国と和解できないのだ。加害の過去に向き合えない日本人のアレルギーは、根深い問題である。
最後の一つは、芸術作品の解釈は決して一通りではなく、豊かで多様な解釈を含んでいるという点。だからこれが「プロパガンダ」だという一面的批判は、撤去理由にはならない。あいちトリエンナーレを訪れ、この少女像を前にして、例えばこんなことを感じる人もいるだろう。
・ 当時の慰安婦は、こんな佇まい、服装、表情をしていたんだ…
・ 従軍慰安婦は、ごく普通の少女だったんだ…。
・ 従軍慰安婦は、その時どんなことを考えたんだろう?
・ 従軍慰安婦ってそもそもなんでこう呼ぶのだろう?
海外の媒体ではsex slaveっていうけど。
・ 慰安所で、どんなことをしたんだろう?
(当然、従軍慰安婦のことを初めて知る若い人もいるにちがいない)
・ 従軍慰安婦は日本だけだったんだろうか? 他の国は?
・ なぜ日本と韓国の政府は、今もこの問題を解決できないんだろう?
・ なぜこんな少女が、戦争に巻き込まれてしまったんだろう?
・ この少女は、今どうしているんだろう?
など、挙げればきりがない。
だから、「韓国の日本批判プロパガンダとしての慰安婦像」という解釈だけでこの展示を語るのは、アート作品が提示する様々な深みあるコンテクストを寸断し、単純化する蛮行である。アートの政治化は、アートの文化的多様性を否定する行為である。(そして歴史教育には、このアートの文化的多様性こそが必要なのだ)
以上である。
「表現の不自由展」というタイトルから、今回の騒動は主催者や芸術監督の津田大介氏は予想していただろう。だからこそ、美術展自体の「表現の自由」が侵されているいま、本質的な議論を喚起してそれを守り通して欲しい。むしろ本質から離れて、政治を持ち込むこと自体のアレルギー、事なかれ主義に陥るのは、愚かなことだし、それこそ日本特有の同調圧力に屈することになる。
そんな事態に嵌ってしまうような人々ではないと信じているし、僕たちも表現の自由を死守するための応援はできる限りやってゆきたいと思う。
舩橋淳(映画作家)