「Fukushima 50」 若松節朗 監督
冷静には見られない映画なのはわかっていた。
巨大なスクリーンいっぱいに津波が覆いかぶさってくる瞬間、もっといえば、原発前で、巨大な引き波が立ち起こる瞬間に、全身の毛が逆立つ恐怖を覚えた。
そうやって、原発が大量の海水に呑みこまれ、SBO(全電源喪失)、1号機、3号機の水素爆発に、2号機の圧力急上昇から謎の圧力ダウン、首相の1F乗り込み・・・などなど全て、字面でも取材でも、当事者にも話したこともあるし、様々な関係者から聞いてきた事実であるが、それでもスクリーンで見るのは違った。
現場の当事者として原発事故を生き抜くとはこういうことなのか、と巨大な音響による爆発、揺れ、長時間の作業による疲労、極度の不衛生を体感して、初めてわかることばかりであった。
やはり人間の想像力には限界がある。
これだけ圧倒的な「再現」を見せられては、そう思わざるを得ない。
この映画の白眉、この作品をつくった意義があるといえる場面が、原発所内の人員まで避難指示となり、最少人数でのオペレーションとして残った吉田昌邦所長以下、発電所所員たちの「覚悟」。(それがどう描写されるかはいうまい。ぜひ劇場で確かめてほしい)暗闇の中で、疲労困憊、睡眠不足、衛生管理不足で、放射線量だけが上がってゆく・・・彼らは「死の覚悟」を決めるしかなかった。この覚悟に向き合うだけだけでも、ゾッと背筋が凍るのだ。
確かに、ヒロイズムの称揚への批判はあるだろう。
またトップダウンの軍隊的な描写。吉田所長が命令すると、現場が士気まんまんで「ハイッ!」返事する過度な演出には、閉口するところもある。
さらに、「2020東京オリンピックは、復興五輪と位置づけられ、聖火は福島からスタートする」という、福島無視の、(あれだけ国・政権を批判的に描いていたのに)安易な国威称揚のコメントは、承服できない。
しかし、この存在意義があるとすれば、
「福島をヒロイズムで、消費してはならない」ことを見るものに訴える一点だ。
最後に残った作業員たちの覚悟に涙するのは当然だが、それを冷静に分析する理性も我々は持ち合わせている。吉田所長の言ったように「自然をなめていた」もう二度とこんなことが起きないよう、現場の「ヒロイズム」に犠牲を押し付けないよう、原子力発電はもう避けるべきだという判断こそが、この悲劇から我々が学ぶべきことなのだ。現場の人間が責任感を持って、決死の覚悟で頑張ってくれるのは、日本人の民族性から、よぉく僕らは知っている。だから、彼らに「誰もがやりたくない、死に向かう仕事」を押し付け、関東の人間はのほほんと電力を使いつづける<加害のシステム>こそ、絶対二度とやってはいけない、と誓うべきなのだ。
メジャー会社が作った映画であるかどうかは、この際どうでもよい。
演出の未熟さはあろうとも、10年後、20年後に見たとき、
あのときの恐怖と犠牲を、文明のエゴへの反省として捉えるという意味で、この映画は存在意義を持ってくるに違いない。
(写真は、本当のFUKUSHIMA 50 と呼ばれた作業員たち)