地球上の異なる場所や時間にある事象を映画空間の中で見事に架橋してみせ、遠く離れた映像と記憶を結びつけるという芸当を、ミゲル・ゴメスは、ふてぶてしく、そして美しくやってみせる。
ポルトガルに生きるひとりの老女が、その若かりし頃アフリカの奥地で体験した愛の邂逅への追憶を描く「熱波 Tabu」はまさしくそうであった。アナ・モレイラが演じる女性オーロラがなんとも素晴らしく、ワニも棲息する獰猛なジャングルが濃密な愛情の空間へと変わり、映画とは、エキゾチズムとは似て非なるアクチュアルな感情に満ちた異空間なのだということを証明してみせた。(私もこの魅惑的なゴメスの手つきにまいってしまった一人で、拙作「ポルトの恋人たち 時の記憶」でアナ・モレイラに出演依頼したのは、実は「熱波」を見たからだった。)
本作「グランドツアー」は、「熱波」の拡大豪華版と言ってよいだろう。
結婚を約束した男女がある日突如別れ、男の方が逃走し、女は追走してゆく。そのチェイスドラマが、ミャンマー、シンガポール、タイ、ベトナム、フィリピン、日本、中国と転々と舞台を移しつつ、反復される。しかも、その土地々々の豊穣な地域文化、音楽、舞踏などを映画の肉体として取り込みつつ旅が続くという、なんとも豪華でふてぶてしい”全部盛り”の旅程=グランドツアーが一糸乱れず展開してゆくのだ。しかも、ゴメスはこれらアジア各国の旅パートを俳優なし・脚本なしで、ドキュメンタリーのように先に撮影し、「あとはなんとかなるはずだ」とそれを繋ぎ止めるフィクションをリスボンのスタジオで俳優たちと共に「後付け」で撮ったという。
逃げ続ける男の尻尾を、女がなんとか掴み、二人は愛でたく再会するなどという”都合のよい”結末などとうに捨てている。話をなんとかまとめようとする恣意的な演出が限りなく希薄な場所にこそ、映画の奇跡が宿るはずだと言わんばかりの”ふてぶてしさ”にこそ、本作の本質がある。
なぜこれだけ沢山の国に行かなければならないのか、理由などない。逃げ続けること、追い続けること、生きること=映画とはこの反復なのであるとでもいうかのように。フィリピンのカラオケから、日本の虚無僧、中国の竹林奥地のパンダまでいとも容易に映画に吸収し、1箇所に止まることなく、流れ続けてゆくこと。「熱波」で鮮烈に記憶されたモノクロームの美しいキャメラが本作でも健在であり、延々と続く旅がブラック&ホワイトの硬質な光に焼きつけられたかと思えば、ところどころ、まるで生命を吹き込まれたかのようなカラーのショットが紛れ込む。こんなことやったら破綻しないのか?と思われる際どさをさらに臨界点まで押しやることこそ、映画であると言わんばかりに、”ふてぶてしく”ジャンルを横断し、スタイルや物語を複雑化してゆく姿勢に、ミゲル・ゴメスの真骨頂があるように思える。
主人公の女性モリーには、美しいフランス語を話す中国人の友人ゴックがいる。彼女と一緒に中国の占い師に見てもらったところによれば、モリーは男を二人愛するという。そんな男たちを追い続ける旅のラスト、彼女がとうとう息絶えてしまわんとするとき、ミゲル・ゴメスにしかできない奇跡が召喚される。それは、破綻も厭わない覚悟を持ち、フレームの外の偶然性の「光」を招き入れることこそ映画なのだと信じる作家の”ふてぶてしさ”により、初めて可能となったラストだとだけ言っておきたい。映画が息を吹き返す瞬間に、きっと驚くにちがいない。
東京のプレミア上映のステージ上でゴメスは言った「フィクションは死に打ち勝つことができる」と。
舩橋淳(映画作家)
