Ophlus & Guitry

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「たそがれの女心」  “Madame de….”  Max Ophuls 1953
Ophuls作品について、誰もがその流麗なキャメラワークを語る。
そこには、カメラを動かすのがまず第一にあり、人物が早足で歩き、人がせわしなくリアクションを見せるのがデフォルトの世界がある。動き続けるという映画のフォルムがまずあって、場面内容が次に決まってゆくのではないかと思えるほど、Ophulsの芸術的選択は強固なものだ。
それをスタイルと言ってしまうと、矮小化しているように感じる。
人物たちの身のこなし、互いに余裕綽々で騙し合うという“優雅な”サスペンス、流れるような音楽の選択、壁を越え人々の集団を凌駕し、空間を飛ぶように動くキャメラ・・・全体へのmise en sceneが 有機的に連鎖している、まさに映画である。
「キャメラが動き続ける空間」がデフォルトである映画作家は、現代ではトニー・スコット、(サブウェイ123激突) やイーストウッドを思い浮かべてしまうが、これを50年代のアメリカとフランスで成立させてしまったというのが凄すぎる。
キャメラが動くべきか、フィックスで留まり続けるべきかという問題は、映画史的にみてあらたなフェーズに来ている気がする。だからこそ今Ophlusを考え直してみるのは、面白いかと。
なぜこのあまりにも過激な流麗さを追求したのか、とOphuls が生きていたら聞いてみたいものだ。Danielle Darrieux が本当に美しかったからだ、とでも言われるのがオチかもしれぬ。
「トランプ譚 」  サッシャ・ギトリ  (1936, 仏、81 min )
ギトリが自伝的に演じ、ギャンブルのいかさま師を演じる。
自信の小説「詐欺師の物語」を脚色、監督、主演した2作目とのこと。
最初、夕飯のChampignon(キノコ)を家族12人のうち、自分だけがビー玉を盗んだバツで食べれず、残り11人が食べて一挙に死んでしまうギャグには笑ったが、そのような視覚的ギャグが散りばめられている。
映画がトーキーになったとき、時代の最先端の表現、つまり語り言葉を肉体化したのが、ギトリだった。故にフランス語を使ったもっともフランス映画らしい作家ともいえるかもしれない。その正当な後継者はトリュフォーになるだろうか。ナレーションによる過去の語りは、言語的壮麗さがあってこそ成立するのだろう。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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