PRODUCTION NOTE
「江戸の四塔」の一つ
噺家や文人・歌人が愛した塔が焼失した・・・
かつて谷中霊園の真中には五重塔が屹立していた。寛永二十一年(1644)長耀山感応寺(いまの天王寺)の境内に建立されるが、大火で一度焼失する。その後寛政三年(1791)に八田清兵衛率いる48人の大工により再建。高さは十一丈二尺八寸(34.18m)、塔身は三間四方(初層5.45m)、木造建築の粋・欅作りで、屋根の反りはゆるいが軒は深く雄大かつ典雅な塔であった。池上の本門寺、上野の寛永寺、浅草の浅草寺と並び「江戸の四塔」の一つとして崇められ、上野戦争、関東大震災、第二次世界大戦など数多の危機を乗り越えた。しかし、1957年7月6日の未明、心中放火により全焼。「こんな高けぇ薪を使いやがって...」と人々はぼやいたという。地元のランドマークであった五重塔。北原白秋、幸田露伴、平節田中など多くの文人・歌人が近くに住んだ下町谷中のシンボルであった。明治時代に再計測された設計図が残されており、現在再建活動が静かに始動している。